2011年09月16日

フェローマックス新車発表会

 昭和45年夏、高度成長期のまっただ中、千里丘陵では万国博覧会が開催されているころ、わが自動車屋でも好景気で、新車中古車問わずよく売れたし仕事はいくらでもあった、中古車は1年未満、1万キロ未満も当たり前のように売買されていた、私自身二十歳を少し過ぎた頃、心身ともに充実、日付が変わるまでクルマの下に潜っていたこともたびたびあった。

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 そんな折、こんなに小さくてレトロな自動車屋でなんと新車発表会が催された。

  アブラで汚れた壁に掛けられた愛用の道具類はすべて紅白の垂れ幕で隠され、かど口には立て看板やのぼりが立てられた、いつもの作業場にはモデルチェンジしたばかりのフェローマックスが鎮座していた。そして軒先にはその試乗車も用意された。

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 ダイハツデーラーがこんな小さな自動車屋に期待を持ってくれたのは嬉しいが、これは異常やな、と思った。デーラーや大手の販売店ならともかく京都の小さな町工場は古くからのお得意様でもっていて、少なくとも通りがかりの人がふらっと入ってきて新車を眺めて、そして商談などということはまずないだろう、お得意様だって普段から来店されることはほとんどない。

 その思いは的中した、数人のお得意様と私の友人が賑やかしに来てくれた以外、ほぼ一日中ご近所のオジサンたちの井戸端会議の場となっていたのだ、まるで地蔵盆のように。

 それでもこの日の後、数台のフェローマックスが売れたのは新車発表会おかげではなくフェローマックスの人気と期待度の大きさから、ではなかったかと思う。

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 期待のニューカー・フェローマックスはそれまでのフェローとはまったく違っていた、エンジンは同じZM型2サイクル2気筒を使っているのに、これがホントにあのトラック屋のダイハツのクルマかと思うほどかっこいい2ボックスの軽いボディとスポーティーで軽快な走りの前輪駆動、その分ちょっと乗りにくさも兼ね備えていた。


 朝顔型のハンドル、ちょっと堅めのフロアチェンジのシフトレバー、短いストロークでがしっとつながるクラッチ、細かに調節できるリクライニングシート、二点式シートベルト、かっこいいダッシュボードとコンソールボックス、手動ポンプ式ウインドウォッシャ、前ストラット、後セミトレーリングアームのちょっと堅めのサスペンション、どれもが新しかった。
 それでもまだこの時代、このスタイルでハッチバックではないし、ラジアルタイヤでもない、そしてエアコンもオートマもない。

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 数台売れた中にフェローマックスSSがあった、ZM15型エンジンは圧縮比を11にあげ、ツインキャブによって驚異の7200回転でなんと40馬力を絞り出している、これはリッターあたり100馬力を超える、軽自動車としては初めての快挙であった。
 期待通りこのクルマの走りはすばらしく、2サイクルエンジン特有のこもるような振動をボディいっぱいに響かせてびっくりするほどの加速を味わわせてくれた、音や振動が抜けないせいか、あのN360のバイクのような加速感とはまた違った、恐怖にも似た驚きがあった。

 

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 ところが、しばらくこのSSに付き合ってみると、このような本来の性能をたたき出す快調な状態を保つことの難しさに気がつくのだった、今のコンピュータで制御するエンジンと違って、なにもかも人の手で調整してやらなければならないのがこの時代、タイミングやキャブレターの調整も、気むずかしい、としか言いようがないほどシビアで、例えばタイミングは1度以下の差で極端に加速が悪かったりするし、キャブレターは少し薄いとのびが悪くなるし濃いめで調子を出すとプラグが溶けるほどの熱を持ってしまう、もちろんバランスが悪いと情けないほど調子が出ない、苦心して調整しても1週間もするとまた再入庫というありさまだ。


 マックスSSがすべてこんな有様だったと言うことはないと思うが、機械には当たり外れがあって、また機械というものは故障して当たり前、を実感していた時代のことだ。

 

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 結局いろいろやってみた結果、ベストではないがベターといえる持続可能な妥協点を見つけ出したものだった。
 もしも現代の技術で、例えばコンピュータ制御であのエンジンを廻したらどんな走りをするのか、出来ることなら見てみたい、そう想う。

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 果たしてこのフェローマックスSS、20才過ぎの若い顧客ではあったが1年を過ぎた頃、見切りを付けてほかのクルマに乗り換えとなった、自動車屋にとってはちょっと苦しい1年だった。

posted by 健太朗 at 22:30| Comment(5) | TrackBack(0) | ダイハツの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年01月20日

提携という名のコンソルテ

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 むかしむかし、昭和38年から40年代にかけて、コンパーノというそれはそれは美しいクルマがあった。
 ダイハツがイタリヤのカロッツェリア、ヴィニヤーレにデザインを依頼、当初それはバンタイプだったが、後にダイハツ独自でセダン化され、コンパーノベルリーナとなった。


 当時すでにパブリカやブルーバードなどはモノコックボディに移行していたが、ダイハツはあえてはしご形フレームを採用した。

 後にスパイダーやピックアップトラックまで派生するのだが、フレームを持っていればこそ容易に変身できたといえるだろう。

 

 ダイハツの乗用車第一号は三輪乗用車のBeeだと思うが、この幻の名車を除けばコンパーノはダイハツ最初の小型乗用車であり、その美しさからかなりの人気があったのだが、いかにせんフレーム付きの重いボディを800㏄41馬力で走らせるには非力で、スパイダーが出てからは1000㏄に換装されたとはいえ、ファミリアやカローラの軽快感には及ばなかった。

 

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 昭和43年11月、ダイハツ工業はトヨタ自動車と業務提携を交わし、日野自動車とともにトヨタグループとなった、そこで登場したのが、コンソルテベルリーナだ。


 コンソルテとは“伴侶、提携”のイタリア語で、ダイハツとトヨタとの関係を意味している、その名の通り形式はEP30、Eはダイハツ製FE型エンジンを、Pはトヨタの当時のパブリカのボディを、30はその3代目をそれぞれ表している、つまり3代目パブリカのボディにコンパーノの1000㏄エンジンを載せていると云うことだ。

 

 まわりくどい言い方になったが、こういう製品は自動車以外の分野にはあったのだろうが、ことクルマに関してはまるで政略結婚のようで一般には受けが良くなかった、まぁ最近ではモコという車に乗って、これは日産の車だ、と言い張る人もあるくらいごっちゃまぜになってきているが、それにしてもエンジンだけ他社のものというのは珍しい。

 ともあれ当時の自動車の世界でコンソルテは異端児だったのだ。

 

 そういう車に私が乗ることになったのは、昭和51年の初め頃、当時乗っていたスバルRⅡを是非にと請われて友人に譲ってしまった後、知り合いのダイハツ営業マンに、なんでもいいからと頼んで、間に合わせに持ってきてもらったのがこの中古車だ。


 47年式、マイナーチェンジ後の「ベルリーナ」が付かない「コンソルテ2ドア」だ、10万円あまりだった、オドメーターはなんと3870Km、これは信じられる数字ではない、その証拠にその後の整備で交換した部品はエンジンマウントやキャブレターなどにおよび、ホース類やケーブルなど細かいものをあげればキリがないほどだ。これはメーターが一周しての3870Kmなのだろうかと思ったものだ。

 

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     大山をバックに(左があのころの私)

 

 それでも整備が終わってみると信じられないほど快調になって、もとより素人受けするほどきれいな内外装もあって、極上の小型セダンが出来上がった。

 

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 KP30型パブリカは初代カローラのモデルチェンジ版みたいなクルマで、エンジンもサスペンションもほとんど同じようなもの、だから充分に信頼性のある成り立ちをしていた。

 そのボディに「發動機製造株式會社」以来の定評あるダイハツ製エンジンを載せたコンソルテは、パブリカより少し女性的で、コンパーノより筋肉質な、実に安心感のあるクルマで、もう何十年も昔から乗っているような感じが、言葉に表すのは難しいが、そういう所が私は気に入って、間に合わせのはずのクルマに3年も付き合っていた。

 

 その間に私は新しい巣をもうけ、美しい?伴侶を得た、そして彼女のおかげでこれ以降、乗り換える車は徐々に良くなり、ついに新車を降ろすまでになったのである。

 

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       コンソルテ(上) と パブリカ(下)

 

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posted by 健太朗 at 13:54| Comment(1) | TrackBack(0) | ダイハツの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年09月01日

保険屋さんのフェロー

 少し秋の気配が漂ってきたが、それにしてもちょっと気の早い背景の写真を掲載する


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 昭和43年型ダイハツフェロー、45年頃、京都国際会議場の前で撮影している。


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 イザナギ景気と言われた好景気のまっただ中で、経済成長率11,6%といううらやましいくらいの時代だった。


 何もかも右肩上がりのこの時代、私の自動車屋に生命保険のセールスレディ、つまり保険屋のおばちゃんのお客様があった。
 昔のセールスマンは1軒1軒歩いて訪問する「飛び込み」と言われる方法が圧倒的に多かったのだが、この頃から成績の良い人は自転車や車を使う人もあった。

 なんでも会社から頂く給料ではかえって損になるので個人経営にしている人がいるとの噂もあった。
 そんな保険屋のおばちゃんに発売間もないダイハツフェローをお買い上げ頂いた。

 フェローはダイハツ初の軽乗用車で、プリズムカットと言われた美しいデザインと、びっくりするほど堅牢な車台を持ったくるまであった。
 近年これによく似たデザインのレトロなクルマがヒットしたが、ねらいは逆で、プリズムカットはモダンなデザインだった。
 サスペンションはフロントダブルウイッシュボーン、リヤはダイヤゴナルリンクのスイングアクスルであったが、ハイゼットのような無骨でごついパーツを使っていたので、驚くほど丈夫だった、なので乗り心地は上等で、軽自動車とは思えぬほど、大げさに言うと重厚な乗り味だった。

 ところがこのくるまが保険のお客様に評判がよろしくないと云うのだ、どうしてかってとにかく煙がひどくて狭い道路の住宅街などじゃ煙が滞って近所迷惑だとおっしゃるのだ。

 この時代の軽自動車は、2サイクルエンジンが主流、スバル360,ミニカ、フロンテ、サンバー、ハイゼット、キャリー、それにミゼットもみな2サイクルエンジンだった。
 2サイクルエンジンとはどんなエンジンだったかと言うと、バルブ機構が存在しない、つまりクランク室で圧縮した混合ガスをシリンダ内に送り込んで、それで燃焼済みのガスを掃気する、だからピストンなどの摺動部にオイルを送ったり、そのオイルを回収したりと言うことが出来ないわけで、しようがないから燃料の中にオイルを混ぜてしまったわけだ。
 だからエンジンオイルの燃えカスはマフラーを通って白煙となってテールパイプから出る。
 軽自動車は煙を吐いて当たり前なのだ。

 だがスバル360と違ってフロントにエンジンを載せたフェローの場合、長いエキゾーストパイプの途中に大きなサイレンサー(マフラー)を二つもおごったものだからテールパイプから出る排気ガスはすっかり冷えてしまって白煙が多くなってしまうのだ。
 つまり排気温度が高いまま外に出した方が人間の目には見えにくいと云うことだ。
 で、これは発売一年後に改良されてサイレンサーは一つになった。

 それはともかく、保険屋のおばちゃんはこの白い煙がお客様に評判よろしくないのだから、その矛先は自動車屋に来る、かと言ってこればかりはどうしようもない、しばらく辛抱して小型車に乗り換えてもらったが、なんだか成り行きで、この下取り車を私が引き受けることになった。

 私はこのクルマを郊外に持ち出してエンジンをぶん廻しにすることから始めた、マフラーを焼いて煙を出してカーボン掃除をする為だ、これで煙は少なくなるのだが、また暫く街乗りをしていると元の木阿弥だ。
 マフラーを焼くなんてことをするのは排ガス対策だの公害や温暖化という言葉さえ知らなかった時代のことである。

 また、23馬力の非力で小さなエンジンを前に縦置きにして長いプロペラシャフトで500㎏近いボディを走らせるのだから、どうしても力不足は否めなかった、特に峠道などではひぃひぃ悲鳴をあげて走らせなければならなかった、もちろん後ろに煙幕を張って、だ。
 これがホンダN360の発売に端を発した馬力競争に巻き込まれて初期の23馬力のエンジンはついに32馬力まで絞り出すのだが、どうしても軽快な走りにはならなかった。

 保険屋のおばちゃんは約2年、辛抱して乗られたが、私は1年で音を上げてしまった。だがモダンなコラムシフトや広い室内とトランクルーム、それから写真でも判るが、冬のオーバークール対策でラジエター前に段ボールを2枚差し込んで調整したことなど、なんだか懐かしいくるまの一台である。

posted by 健太朗 at 17:29| Comment(4) | TrackBack(0) | ダイハツの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする