ダイハツのレーシングカー P5

  今日はちょっと変わったところでダイハツのレーシングカーの話をしましょう。

 昭和38年5月3~4日、鈴鹿サーキットに於いて第1回日本グランプリレースが開催され、日本のモータースポーツの幕が開けられました。

 これ以前は日本にはクルマのレースなどありませんでした、いえいえ、全くなかったわけではありません、それこそ大正時代には日本自動車競争倶楽部という団体が出来ていますし、東京の多摩川河川敷には楕円形のコースを持ったサーキットがあったそうです、鈴鹿サーキットを作った本田宗一郎親爺さんは戦前の昭和11年、その多摩川サーキットでフォードに自作のターボチャージャーをつけたマシンで出場しています。

 戦後の復興期にはオートバイのレースが船橋オートレースや富士登山軽オートバイ競走大会など、盛んに行われたそうですが、四輪車のレースは目立ったものといえば、日産がダットサン210のオーストラリアモービルガストライアル優勝があるほか昭和34年の第1回日本アルペンラリーがあるくらいです。

 ですから昭和37年に鈴鹿サーキットが出来てから日本で本格的な、そして国際的なレースが出来るようになったわけです。

 第1回日本グランプリでは、クルマもドライバーも外国から招待し国際スポーツカーレースとしてこの日のメインに位置づけされました、ロータス23、ジャガーDタイプ、ポルシェカレラやアストンマーチン、フェラーリ250など見たことがないような世界の名車がこのレースに出場したわけです、これによって20万人もの観客が見物に訪れたといいます。

 そして国内レースでもトライアンフ、MG、スプライト、Eタイプジャガーなどが活躍する中、コンテッサ900、フェアレディ、スズライトなどが先頭を走りました、中でもパブリカ、コロナ、クラウンのトヨタ3車種がそろって優勝するといったハイライトもありました。

 第2回日本グランプリでは、フォーミュラレースにデルコンテッサが出場し、スカイラインGTとポルシェ904の記憶に残る接戦があり、ホンダS600、ブルーバード、グロリアなどの優勝もありました。

 このように各メーカーがワークスとして力を入れる中、勝ったメーカーは拡販につながるほど効果があったので、ダイハツもコンパーノスパイダーで全日本自動車クラブ選手権レース大会などに出場しますが、なかなか成績を上げることは出来なかったようです。

 さて昭和41年1月3日富士スピードウェイがオープンし日本グランプリレースもこの年から富士に舞台を移します。

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 コンパーノベルリーナのボディをファーストバックにしたり空力を意識したP1、P2、を経て本格的なプロトタイプボディP3を開発、このP3、2台は第3回日本グランプリレースに出場しクラス優勝しています。

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 しかしこの第3回こそ各ワークスチームが最も力を入れてきた大会でした、60周回360kmという長距離レースとなり、初めて燃料補給などのピットインが必要となるレースで、プリンスR380、トヨタ2000GT、デイトナコブラ、Eタイプジャガー、ポルシェカレラ6など大排気量のマシンがデッドヒートを繰り返し数々の事故もあり、今では考えられないピットワークの失敗などで混戦する中、1000ccの小さなエンジンで着実なレース運びで総合7位、クラス優勝でフィニッシュにました。

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 その後ダイハツは第4回日本グランプリレースを目指してP5を開発します、こちらはコンパーノの車台から本格的なチューブラーフレームが採用され、全長3850mm、エンジンもDOHC・1261ccに引き上げられ、130ps、最高速度は240km/hに達しました。

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 レースにはピットにスペアのタイヤや給油機も持ち込んで万全を期しての挑戦でしたが、レース直前になって主催者側で、

 「性能が大きく異なる車が一緒に走ることによる危険の防止」

 という理由で予選タイムが2分20秒を切らなければ失格と言うことになってしまったのです。

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 もちろんR380やカレラ6には問題ない数字ですが小排気量のP5や日野サムライなどにとってはきびしい条件になって、P5は僅か0.6秒差で失格となってしまいました。

 昭和43年の‘68日本グランプリではさらに改良が加えられP5は4台が出場し、トヨタ7、ニッサンR381、ローラT70やポルシェカレラ10など最新のマシンに混じって、ラップタイム2分9秒2を記録します。

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 成績は総合では10位ですがクラス優勝を果たし、マクランサに割り込まれますが3位から5位を独占しました。

 ちなみにマクランサはホンダS800をベースに京都の童夢が開発したマシンです。

 その後もP5は鈴鹿1000kmレースや300kmレースなど主に長距離レースで表彰台に上がる活躍をしますが、これにはP5の燃費の良さがあります、1000kmレースに於いても途中1回しか給油のためのピットインをしなかったという伝説のような話が伝わってきます。

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 しかし翌年、昭和44年の鈴鹿1000kmレースを最後にダイハツはP5によるレース活動から撤退します、背景にはトヨタとの業務提携があったことは間違いないのですが、その実、クラス優勝を繰り返しても、総合優勝のような派手さはなく大きな宣伝効果は見込めず、大きな経費を掛けることの無駄を続けられない会社の事情もあったようです。

 昭和45年にはケイヨウGTという名前で個人参加を果たしますが、その年限りで姿を消しました。

 そして今でもダイハツ社内には黄色いP5が大切に保管されているそうです。

エレガントなコンパーノ

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 昭和40年から41年にかけて放送された「バックナンバー333」というテレビドラマ、コンパーノ・スパイダーが活躍するので、高校生の私は白黒テレビにかじりついて見たものです。

 でも内容はよく覚えていません、Wikipediaによると、-鶴見大介は普段はレンタカー会社を経営しているが、事件が起きると愛用のスポーツカー「カーナンバー333」に飛び乗り、持ち前の正義感と合気道五段の腕前で社会悪に立ち向かい、次々と事件を解決していく-、ということです、鶴見大介はあの月光仮面や隠密剣士の大瀬康一が演じていました。

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 コンパーノ・スパイダーはセダンのコンパーノ・ベルリーナの屋根を切り取って4人乗り2ドアコンバーチブルとしたクルマで998ccツインキャブレター65馬力最高速度145km/hのスマートなオープンカーでした。

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 そのベースとなったコンパーノ、プロトタイプは昭和36年、第8回全日本自動車ショー(東京モーターショー)で発表された、イタリアンデザインの「ダイハツ乗用車」というクルマでした。

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 当時、オート三輪トラックメーカーだったダイハツ、初めての乗用車として発表されたのですが、実は昭和26年に三輪乗用車、Bee(ビー)、があって、そのデザインの美しさは人気があったのですが、36年のダイハツ乗用車はフィアット1800によく似たというよりコピーしたようにそっくりな、しかし小型乗用車としてはファニーなデザインでしたので評判が良くなかったのでした。

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FIAT1800

 そして翌年の第9回東京モーターショーに出品されたコンパーノ・ライトバンはイタリヤのカロッツェリア・ヴィニャーレによる美しいデザインで、その生産型は昭和38年4月に発売されました、続いて6月にはコンパーノ・ワゴンそして11月にはセダンのコンパーノ・ベルリーナが発売となりました、ベルリーナとはセダンという意味の他にエレガントなという意味もあるそうです。

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 ベルリーナはバンやワゴンに較べるとちょっとバランスが悪い印象でしたが、これがスパイダーになると実にかっこいいと思いましたね、ちなみにスパイダーは英語で蜘蛛ですが、軽四輪馬車のスパイダー・フェートンから転用された言葉で、アルファロメオ・スパイダーのようにオープンカーの呼称に使われましたが、オープンカーは他にもダットサン・フェートン、パブリカ・コンバーチブル、ロードスターやドロップヘッドなどいろいろな言い方があって楽しいですね。

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 コンパーノの特徴は何といっても梯子型フレームを採用しているということ、つまりシャシとボディが分離していて、エンジンやサスペンションなどがフレームに載っている、理論的にはシャシだけでも走行できる構造になっています。

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 もうこの時代でも軽量車はモノコックボディが当たり前になっていましたが、ダイハツはあえて梯子フレームを採用したのは車型のバリエーションを豊富にするためで、スパイダーは35kg増に抑えられたといいます、後にはピックアップつまりボンネットトラックまで出ているのです。

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 でもこの構造は重量的には不利で、つまりもともと重いクルマですから、私の記憶をたどっても797cc41馬力ではスカッとよく走るという印象はありません、しかしダイハツのサービスマンの友人に、コンパーノGTというクルマに試乗させてもらった時には、エラい迫力があるクルマだと思ったことを覚えています。

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 コンパーノGTはスパイダーと同じ1000ccエンジンにソレックスツインキャブレターの代わりに国産車初の機械式燃料噴射を装備していました、キャブレターのようなユニットの中に噴射ノズルがあったように思いますが、確かツインキャブのスパイダーと同じ馬力だと聞いた記憶があります。

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 さてダイハツは昭和42年、トヨタとの業務提携という道を選びます、それによってコンパーノは昭和44年までの6年間で約12万台を生産して、トヨタパブリカのOEMであるコンソルテにバトンタッチします、提携という名のコンソルテのページに書いていますが、パブリカのしっかりしたボティにコンパーノのしなやかなFE型エンジンを載せたコンソルテは実に名車というにふさわしいクルマに仕上がっていました。

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 そして46年後の今年、東京モーターショー2017DNコンパーノが出品されました。

 コンパーノのオマージュとも言えるようなクルマです、ターゲットはシニア層、だとは開発者の弁ですが、単なるノスタルジーではなく新生コンパーノが復活して世に出るとすればこんな嬉しいことはない、と思います。

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ミゼットふたたび

 このbulgをスタートして始めに書いた文章が部品工場のミゼットでした。

そこではちょっとしたエピソードを話しましたが、私はミゼットと同じ頃に発売されたチキンラーメンを食べ始めた世代なので(関係ないけどね) 今回は、そもそもミゼットってどんなクルマ?、ということをテーマに話してみたいと思います。


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ミゼットが発売された昭和32年は東京タワーが完成する前の年、コロムビア・ローズの「東京のバスガール」がヒットし、ロカビリーが流行り、富士精密から「プリンス・スカイライン」が発表された年ですが、まだまだ乗用車よりもトラックの方が圧倒的に多い時代でした、中でも小型車の場合は自動三輪貨車、つまりオート三輪が多く走っていた時代です。

ダイハツでは昭和5年からオート三輪が造られていましたが、戦後、世の中が落ち着くにつれてその製造台数は多くなりました、しかし中小企業や個人商店などではまだリヤカーを引いた自転車や小型オートバイが使われており、そこに目を付けたダイハツは小型軽量そして安価で経済的なミニオート三輪を開発しました。


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軽自動車という制度が出来たのは昭和24年ですがこの時の排気量は150cc、三輪車も四輪車もありませんでした、この制度は毎年のように改正され、昭和27年に軽自動車初の四輪乗用車「オートサンダル」が発売され、以降主に中小メーカーから続々と現れては消えてゆきました。

軽三輪に限ると昭和27年のライトポニーに始まって、金城ミニカ、ハンビー、ムサシ、ホープスターなどなど、またポピュラーやフジキャビンのような乗用タイプもあって技術力も競っていました、DSKはサイドカーにキャビンを乗せたような、フジキャビンは強化プラスチックで卵形のボディー、などユニークなクルマばかりでした。

老舗のダイハツはくろがねやマツダと並んでオート三輪メーカーですから全長6mもあるような巨大な三輪トラックも造ってていましたが、Beeという三輪乗用車もありました、そこで前述のように小さくて安価なミゼットが出来たわけです。


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最初のミゼットはバーハンドルでエンジンにまたがって乗る原始的なオート三輪のセオリー通りで一人乗り、前面の風防はありますが屋根と背面はキャンバスで出来ていて、ドアもありませんでした。


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車体寸法は全長2,540 mm、全幅1,200 mm、全高1,500 mm。エンジンは強制空冷2サイクル単気筒249 cc 8馬力、最高速度60 km/h、燃消は28km/Lでした。

この時の価格は198千円でした、この頃の物価は封書10円、はがき5円、バス15

円、銭湯16円、散髪150円、大卒の初任給13000円というところでしょうか、現在なら小型乗用車が消買えそうなお値段ですが2年目くらいからは爆発的に売れて4万台余りの生産台数を記録しています。


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乗り味はオートバイのようですが高出力ではないので、がっかりします。

キーを回してチョークを引き、キックを踏むと白い煙とともにタンタンタンと可愛い音を奏でます、左のやけに大きなクラッチペダルを踏んで股ぐらの3段ミッション・ギヤレバーを左下のローに入れます、オートバイと同じようにハンドルのグリップを回してスタートします、ローギヤは決して伸びません、走り出したらすぐセカンド、右上です、シンクロメッシュはないので気をつけてください、そしてまたすぐにトップギヤ、つまり20km/hも出すともうトップギヤの守備範囲です。

最高速度はカタログではたしか60km/h65km/hだったと思いますが、貨物がないときでも60km/hも出なかったと記憶してます。


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このバーハンドルミゼットはわずか2年くらいでMP型丸ハンドルにモデルチェンジします。

こちらは相変わらず2サイクル単気筒エンジンですが305ccになって12馬力、カタログデータは同じでもずっと楽に60km/hは出せたように思います。


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左右にドアが付いて二人乗り、ずいぶんゴージャスになりました、でも相変わらずブレーキは後二輪だけ、怖い思いもしました。

ミゼットはライバルのマツダK360と共に海外輸出でも人気を博し、生産台数の2割近くが輸出されました、といっても当時は沖縄も海外でした。そして東南アジア特にタイの「トゥクトゥク」はタクシーとして今でも走行っているそうです。


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そして軽三輪は世の中が高度成長期に浮かれていた昭和47年ミゼットの販売終了をもって、より自動車らしい四輪自動車に取って代わられました、日本の国産自動車の話しをするときオート三輪と軽三輪トラックを避けては通れないのではないでしょうか。


さてさてそれから24年も経った平成84月、ミゼットIIが発売されました、なんと四輪車です。

 でもこの話はまたいずれ、ということで。


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