2020年01月19日

カタログコレクションから ダイハツ オート三輪

 私が運転免許を取ったのは16歳の時、360cc時代の軽自動車免許だった、その頃の法令では満16歳以上でとれる軽免許で乗れるのは第一種原動機付自転車(50cc以下)、第二種原動機付自転車(125cc以下)、軽自動車そして自動三輪車だった、自動三輪車は自動三輪免許をとらなければ乗れないはずなのになぜか私の免許証には自動三輪も記されていた。

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写真は昭和37年のカタログから

 ちなみに18歳で普通自動車免許をとった時から自動二輪車も乗れることになったから、法改正によって現在は大型自動二輪車にも乗れることになっている。(軽免許では軽二輪の250cc以下)

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 自動三輪も大型自動二輪も当時の法令に照らして乗れるはずがないのだけれど、手違いか法改正のタイミングか、兎にも角にも乗れるんだから若い時には乗っていた。

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ベンチシートの下に直4エンジンが載っている

 さて、自動三輪車つまりオート三輪は第一次世界大戦のさなかといいうから、大正の中ごろに大阪で生まれたものだと言われている、その頃は自転車の前輪を2輪にして後輪を外国製エンジンで駆動するものだったそうだ。

 その後、外国製オートバイを改造して大きな荷台をくっ付けたようなオート三輪が出来てきた。

 昭和になるとくろがねの前身の日本内燃機やダイハツの前身である発動機製造が製造した空冷サイドバルブ単機筒または2気筒のエンジンを積んだマツダ、ダイハツ、くろがね等の工場製三輪車(小さな町工場で手作りや改造したものではなく)の実用性が高いといわれ普及していった。

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 戦前から昭和22年までこのような小さな三輪車は許可制免許だったのでオート三輪の普及発展には大きな力となった。

 その排気量は当初350ccが上限であったが、その後500cc-750ccと引き上げられ無免許優遇措置が廃止されると小型三輪は1000ccまでとされた。

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 そもそもオート三輪は軽便で廉価経済的な運搬車であって、そのメリットは前輪操舵の切れ角に制限が少ないので車体の大きさの割に小回りが利くにということに尽きる、逆に大型化されたり高性能化されると旋回時に踏ん張りがないので転倒しやすいなどのデメリットもある。

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 しかし戦争中に軍事用に重宝されたことから頑丈且つ大型になってゆく、しかも戦後は関係省庁には「オート三輪=軽便車両」という先入観があり、規制を強化することがなかったため大型化は際限がなかった、昭和28年から30年頃には、幅1.9m、全長6m弱、荷台3.9mにもなった (荷台の寸法は13尺と尺貫法がまだ用いられていた)。

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 さらにオート三輪は排気量で小型車扱いとなるよう規定されていたので最大例で、全長6.09m、幅員1.93mという度外れたサイズの小型オート三輪もあった。

 エンジンの排気量は戦後のSV単機筒300ccからV型2気筒や水平対向2気筒などを経て昭和30年代には直列4気筒2000ccも載せられるようになったが2000cc以上は小型枠に収まらないため、これ以上にはならなかった。

 またオートバイのようなバーハンドルが一般的だったが、昭和26年愛知機械工業の「ヂャイアント・コンドル」はヘッドランプを2灯にし、丸型ハンドルを採用して完全クローズドボディを実現した、これにより居住性が大幅に向上した。

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 つまりオートバイのようにエンジンを跨いで乗る姿勢からキャブオーバー四輪トラックのようにベンチシートの下にエンジンを載せるタイプに変わっていったのである。

 こうなると三輪車であることの意義は薄れ、前述の小回りが利くということ以外にはメリットが無くなってしまうわけで、昭和29年、トヨエースが大ヒットしたことを皮切りにオート三輪は衰退してゆくのである。

 代わりにダイハツミゼットなどの軽三輪車がヒットして軽貨物は軽三輪、大きな貨物は四輪トラックという時代になっていった。

 こうして多くのメーカーが参入したオート三輪は昭和47年ダイハツが生産を中止、49年にはマツダも生産を中止した。

また軽三輪もダイハツミゼットが昭和47年を最後に生産を終えた。

 尚、自動三輪乗用車もないわけではなかった、ダイハツBeeは国内で唯一の小型乗用車として設計生産された三輪車だが、昭和26年-27年にごく少量生産されただけで姿を消して一般にはほとんど知られなかった。












posted by 健太朗 at 18:23| 京都 ☀| Comment(0) | ダイハツの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月02日

ダイハツのレーシングカー P5

  今日はちょっと変わったところでダイハツのレーシングカーの話をしましょう。

 昭和38年5月3~4日、鈴鹿サーキットに於いて第1回日本グランプリレースが開催され、日本のモータースポーツの幕が開けられました。

 これ以前は日本にはクルマのレースなどありませんでした、いえいえ、全くなかったわけではありません、それこそ大正時代には日本自動車競争倶楽部という団体が出来ていますし、東京の多摩川河川敷には楕円形のコースを持ったサーキットがあったそうです、鈴鹿サーキットを作った本田宗一郎親爺さんは戦前の昭和11年、その多摩川サーキットでフォードに自作のターボチャージャーをつけたマシンで出場しています。

 戦後の復興期にはオートバイのレースが船橋オートレースや富士登山軽オートバイ競走大会など、盛んに行われたそうですが、四輪車のレースは目立ったものといえば、日産がダットサン210のオーストラリアモービルガストライアル優勝があるほか昭和34年の第1回日本アルペンラリーがあるくらいです。

 ですから昭和37年に鈴鹿サーキットが出来てから日本で本格的な、そして国際的なレースが出来るようになったわけです。

 第1回日本グランプリでは、クルマもドライバーも外国から招待し国際スポーツカーレースとしてこの日のメインに位置づけされました、ロータス23、ジャガーDタイプ、ポルシェカレラやアストンマーチン、フェラーリ250など見たことがないような世界の名車がこのレースに出場したわけです、これによって20万人もの観客が見物に訪れたといいます。

 そして国内レースでもトライアンフ、MG、スプライト、Eタイプジャガーなどが活躍する中、コンテッサ900、フェアレディ、スズライトなどが先頭を走りました、中でもパブリカ、コロナ、クラウンのトヨタ3車種がそろって優勝するといったハイライトもありました。

 第2回日本グランプリでは、フォーミュラレースにデルコンテッサが出場し、スカイラインGTとポルシェ904の記憶に残る接戦があり、ホンダS600、ブルーバード、グロリアなどの優勝もありました。

 このように各メーカーがワークスとして力を入れる中、勝ったメーカーは拡販につながるほど効果があったので、ダイハツもコンパーノスパイダーで全日本自動車クラブ選手権レース大会などに出場しますが、なかなか成績を上げることは出来なかったようです。

 さて昭和41年1月3日富士スピードウェイがオープンし日本グランプリレースもこの年から富士に舞台を移します。

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 コンパーノベルリーナのボディをファーストバックにしたり空力を意識したP1、P2、を経て本格的なプロトタイプボディP3を開発、このP3、2台は第3回日本グランプリレースに出場しクラス優勝しています。

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 しかしこの第3回こそ各ワークスチームが最も力を入れてきた大会でした、60周回360kmという長距離レースとなり、初めて燃料補給などのピットインが必要となるレースで、プリンスR380、トヨタ2000GT、デイトナコブラ、Eタイプジャガー、ポルシェカレラ6など大排気量のマシンがデッドヒートを繰り返し数々の事故もあり、今では考えられないピットワークの失敗などで混戦する中、1000ccの小さなエンジンで着実なレース運びで総合7位、クラス優勝でフィニッシュにました。

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 その後ダイハツは第4回日本グランプリレースを目指してP5を開発します、こちらはコンパーノの車台から本格的なチューブラーフレームが採用され、全長3850mm、エンジンもDOHC・1261ccに引き上げられ、130ps、最高速度は240km/hに達しました。

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 レースにはピットにスペアのタイヤや給油機も持ち込んで万全を期しての挑戦でしたが、レース直前になって主催者側で、

 「性能が大きく異なる車が一緒に走ることによる危険の防止」

 という理由で予選タイムが2分20秒を切らなければ失格と言うことになってしまったのです。

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 もちろんR380やカレラ6には問題ない数字ですが小排気量のP5や日野サムライなどにとってはきびしい条件になって、P5は僅か0.6秒差で失格となってしまいました。

 昭和43年の‘68日本グランプリではさらに改良が加えられP5は4台が出場し、トヨタ7、ニッサンR381、ローラT70やポルシェカレラ10など最新のマシンに混じって、ラップタイム2分9秒2を記録します。

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 成績は総合では10位ですがクラス優勝を果たし、マクランサに割り込まれますが3位から5位を独占しました。

 ちなみにマクランサはホンダS800をベースに京都の童夢が開発したマシンです。

 その後もP5は鈴鹿1000kmレースや300kmレースなど主に長距離レースで表彰台に上がる活躍をしますが、これにはP5の燃費の良さがあります、1000kmレースに於いても途中1回しか給油のためのピットインをしなかったという伝説のような話が伝わってきます。

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 しかし翌年、昭和44年の鈴鹿1000kmレースを最後にダイハツはP5によるレース活動から撤退します、背景にはトヨタとの業務提携があったことは間違いないのですが、その実、クラス優勝を繰り返しても、総合優勝のような派手さはなく大きな宣伝効果は見込めず、大きな経費を掛けることの無駄を続けられない会社の事情もあったようです。

 昭和45年にはケイヨウGTという名前で個人参加を果たしますが、その年限りで姿を消しました。

 そして今でもダイハツ社内には黄色いP5が大切に保管されているそうです。











posted by 健太朗 at 22:14| 京都 ☀| Comment(0) | ダイハツの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月16日

エレガントなコンパーノ

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 昭和40年から41年にかけて放送された「バックナンバー333」というテレビドラマ、コンパーノ・スパイダーが活躍するので、高校生の私は白黒テレビにかじりついて見たものです。

 でも内容はよく覚えていません、Wikipediaによると、-鶴見大介は普段はレンタカー会社を経営しているが、事件が起きると愛用のスポーツカー「カーナンバー333」に飛び乗り、持ち前の正義感と合気道五段の腕前で社会悪に立ち向かい、次々と事件を解決していく-、ということです、鶴見大介はあの月光仮面や隠密剣士の大瀬康一が演じていました。

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 コンパーノ・スパイダーはセダンのコンパーノ・ベルリーナの屋根を切り取って4人乗り2ドアコンバーチブルとしたクルマで998ccツインキャブレター65馬力最高速度145km/hのスマートなオープンカーでした。

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 そのベースとなったコンパーノ、プロトタイプは昭和36年、第8回全日本自動車ショー(東京モーターショー)で発表された、イタリアンデザインの「ダイハツ乗用車」というクルマでした。

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 当時、オート三輪トラックメーカーだったダイハツ、初めての乗用車として発表されたのですが、実は昭和26年に三輪乗用車、Bee(ビー)、があって、そのデザインの美しさは人気があったのですが、36年のダイハツ乗用車はフィアット1800によく似たというよりコピーしたようにそっくりな、しかし小型乗用車としてはファニーなデザインでしたので評判が良くなかったのでした。

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FIAT1800

 そして翌年の第9回東京モーターショーに出品されたコンパーノ・ライトバンはイタリヤのカロッツェリア・ヴィニャーレによる美しいデザインで、その生産型は昭和38年4月に発売されました、続いて6月にはコンパーノ・ワゴンそして11月にはセダンのコンパーノ・ベルリーナが発売となりました、ベルリーナとはセダンという意味の他にエレガントなという意味もあるそうです。

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 ベルリーナはバンやワゴンに較べるとちょっとバランスが悪い印象でしたが、これがスパイダーになると実にかっこいいと思いましたね、ちなみにスパイダーは英語で蜘蛛ですが、軽四輪馬車のスパイダー・フェートンから転用された言葉で、アルファロメオ・スパイダーのようにオープンカーの呼称に使われましたが、オープンカーは他にもダットサン・フェートン、パブリカ・コンバーチブル、ロードスターやドロップヘッドなどいろいろな言い方があって楽しいですね。

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 コンパーノの特徴は何といっても梯子型フレームを採用しているということ、つまりシャシとボディが分離していて、エンジンやサスペンションなどがフレームに載っている、理論的にはシャシだけでも走行できる構造になっています。

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 もうこの時代でも軽量車はモノコックボディが当たり前になっていましたが、ダイハツはあえて梯子フレームを採用したのは車型のバリエーションを豊富にするためで、スパイダーは35kg増に抑えられたといいます、後にはピックアップつまりボンネットトラックまで出ているのです。

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 でもこの構造は重量的には不利で、つまりもともと重いクルマですから、私の記憶をたどっても797cc41馬力ではスカッとよく走るという印象はありません、しかしダイハツのサービスマンの友人に、コンパーノGTというクルマに試乗させてもらった時には、エラい迫力があるクルマだと思ったことを覚えています。

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 コンパーノGTはスパイダーと同じ1000ccエンジンにソレックスツインキャブレターの代わりに国産車初の機械式燃料噴射を装備していました、キャブレターのようなユニットの中に噴射ノズルがあったように思いますが、確かツインキャブのスパイダーと同じ馬力だと聞いた記憶があります。

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 さてダイハツは昭和42年、トヨタとの業務提携という道を選びます、それによってコンパーノは昭和44年までの6年間で約12万台を生産して、トヨタパブリカのOEMであるコンソルテにバトンタッチします、提携という名のコンソルテのページに書いていますが、パブリカのしっかりしたボティにコンパーノのしなやかなFE型エンジンを載せたコンソルテは実に名車というにふさわしいクルマに仕上がっていました。

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 そして46年後の今年、東京モーターショー2017DNコンパーノが出品されました。

 コンパーノのオマージュとも言えるようなクルマです、ターゲットはシニア層、だとは開発者の弁ですが、単なるノスタルジーではなく新生コンパーノが復活して世に出るとすればこんな嬉しいことはない、と思います。

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posted by 健太朗 at 11:40| 京都 ☔| Comment(0) | ダイハツの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする