2020年07月11日

時代を駆け抜けたダイハツbee

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 今回紹介するのは国産車では数少ない三輪乗用車で、一番有名であろうという、ダイハツのbeeというクルマです。

Bee_02.jpg 私がまだ赤ちゃんの頃にたった1年だけ、しかも80台しか作られなかった超レア車であって、もちろん私も見たことも乗ったこともない、そして一度は乗ってみたいと思うクルマです。


 世界最初のガソリンエンジン自動車といえば、ベンツ・パテント・モトールヴァーゲンという三輪車でした。

 その後、欧州ではバブルカーと呼ばれた超小型車に三輪乗用車が多くありました、モーガンスリーホイラーやBMWイセッタがそうで、他にもメッサーシュミット、ボンド、リライアントなど、多く出現しました。

 日本では戦後から1950年代、国産自動車の黎明期には三輪トラックは日本の国民車的な発展を遂げましたが、三輪乗用車は成功した例がありません。

 そして初期の軽自動車には、ポピュラーN4 ライトポニーCM DSKキャビンサイドカー ハンビーサリー フジキャビンなどの三輪乗用車がありましたがいずれも商業的に成功したとは言いがたいようです。

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 ポピュラーN4、名初自動車がS31年に発表した三輪乗用車です、先進的な丸っこいデザインで後輪はダブルタイヤになっています、エンジンは2サイクル2気筒360cc前輪駆動、しかし残念ながら少数の試作に終わりました。


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 そんな中でダイハツbeeは小型4座セダンであり、関西地方(おそらく大阪や京都)でタクシーとして使われたというますから、台数は少ないが立派に量産されたクルマなのです。

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 台数は一説には400台作られたとも言われるなど諸説ありますが、製造したダイハツにも正確にはわからないのでしょうか。

Bee_04.jpg 床から生えたブレーキとクラッチペダル、長ーいチェンジレバー、細いハンドル、床にあるディマースイッチ、それに滑りそうなビニールシート、どれも懐かしいかぎりです。

 また、1年で撤退したわけとは、前サスペンションや駆動装置の耐久性に問題があったからだと言いますから、まだ製造技術や材質が充分ではなかった時代を駆け抜けたクルマだとも言えるのではないでしょうか。

 しかし、これら時代を駆け抜けたクルマたちも商業的には成功しなかったとしても、その発想や技術は現代のクルマたちの基礎的な部分として生きているのではないかと思います。

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 ダブルウイッシュボーンの独立懸架をRRで駆動するのは、空冷水平対向2気筒804cc頭上弁式エンジンで、ツインキャブは恐らくミクニ製、金属製の弁当箱みたいのはエアクリーナー、その裏のオイルポンプからオイルホースが見えます、エンジン上のパイプはプッシュロッドのようです。

 発電機は6Vの(オルタネーターではなく)ジェネレーターです、ワイヤーで動かすセルモーターも見えます。

Bee-07.jpg こちらの写真は現存車唯一の実動車のものです、ドライサンプ潤滑方式のオイルタンクとオイルポンプが見える、その上のジェネレーターはベルト駆動ではなくギヤかチェーンでしょうか、エアクリーナーも原始的なものですね、悪路で砂やほこりを巻き上げられたらきついですね。

バッテリーは12Vにも見えます、クランクハンドルも使えるようです。

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 フロントはリーディングアームの先端が可動する構造のようです、リヤは独立懸架だから乗り心地は良いでしょうが、前輪の切れ角が大きくとれないでしょうから三輪トラックのように小回りは利かないだろうと思います。

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 このスタイルはユニークで美しいですね、こんなクルマが高度成長期を目前にしたあの時代の寵児となれなかったのは実に惜しいと私は思うのであります。



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 ちょうど同じような時代にbeeと同じような発想のクルマがあったそうです、デイヴィス・ディバンという三輪車です、これも非常に美しいコンバーチブルでこちらは4気筒FRでbeeよりかなり大きなクルマです、ベンチシートに大のアメリカン女性が4人並んで座って少し窮屈かな、という大きさです。

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 このクルマも販売のためにディーラーまで整備して結局、製造技術の問題で量産にまで漕ぎ着けられなかったクルマです。

















posted by 健太朗 at 14:37| 京都 ☁| Comment(0) | ダイハツの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2020年01月19日

カタログコレクションから ダイハツ オート三輪

 私が運転免許を取ったのは16歳の時、360cc時代の軽自動車免許でした、その頃の法令では満16歳以上でとれる軽免許で乗れるのは第一種原動機付自転車(50cc以下)、第二種原動機付自転車(125cc以下)、軽自動車そして自動三輪車でした、自動三輪車は自動三輪免許をとらなければ乗れないはずなのになぜか私の免許証には自動三輪も記されてました。

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写真は昭和37年のカタログから

 ちなみに18歳で普通自動車免許をとった時から自動二輪車も乗れることになりましたから、法改正によって現在は大型自動二輪車にも乗れることになっています。(軽免許では軽二輪の250cc以下)

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 自動三輪も大型自動二輪も当時の法令に照らして乗れるはずがないのですけれど、手違いか法改正のタイミングか、兎にも角にも乗れるんだから若い時には乗っていましたね。

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ベンチシートの下に直4エンジンが載っている

 さて、自動三輪車つまりオート三輪は第一次世界大戦のさなかといいますから、大正の中ごろに大阪で生まれたものだと言われています、その頃は自転車の前輪を2輪にして後輪を外国製エンジンで駆動するものだったそうです。

 その後、外国製オートバイを改造して大きな荷台をくっ付けたようなオート三輪が出来てきました。

 昭和になるとくろがねの前身の日本内燃機やダイハツの前身である発動機製造が製造した空冷サイドバルブ単機筒または2気筒のエンジンを積んだマツダ、ダイハツ、くろがね等の工場製三輪車(小さな町工場で手作りや改造したものではなく)の実用性が高いといわれ普及していきました。

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 戦前から昭和22年までこのような小さな三輪車は許可制免許だったのでオート三輪の普及発展には大きな力となりました。

 その排気量は当初350ccが上限でしたが、その後500cc-750ccと引き上げられ無免許優遇措置が廃止されると小型三輪は1000ccまでとされました。

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 そもそもオート三輪は軽便で廉価経済的な運搬車であって、そのメリットは前輪操舵の切れ角に制限が少ないので車体の大きさの割に小回りが利くにということに尽きます、逆に大型化されたり高性能化されると旋回時に踏ん張りがないので転倒しやすいなどのデメリットもあります。

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 しかし戦争中に軍事用に重宝されたことから頑丈且つ大型になっていきます、しかも戦後は関係省庁には「オート三輪=軽便車両」という先入観があり、規制を強化することがなかったため大型化は際限がありませんでした、昭和28年から30年頃には、幅1.9m、全長6m弱、荷台3.9mにもなりました (荷台の寸法は13尺と尺貫法がまだ用いられていました)。

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 さらにオート三輪は排気量で小型車扱いとなるよう規定されていたので最大例で、全長6.09m、幅員1.93mという度外れたサイズの小型オート三輪もありました。

 エンジンの排気量は戦後のSV単機筒300ccからV型2気筒や水平対向2気筒などを経て昭和30年代には直列4気筒2000ccも載せられるようになったが2000cc以上は小型枠に収まらないため、これ以上にはなりませんでした。

 またオートバイのようなバーハンドルが一般的でしたが、昭和26年愛知機械工業の「ヂャイアント・コンドル」はヘッドランプを2灯にし、丸型ハンドルを採用して完全クローズドボディを実現しました、これにより居住性が大幅に向上しました。

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 つまりオートバイのようにエンジンを跨いで乗る姿勢からキャブオーバー四輪トラックのようにベンチシートの下にエンジンを載せるタイプに変わっていったのです。

 こうなると三輪車であることの意義は薄れ、前述の小回りが利くということ以外にはメリットが無くなってしまうわけで、昭和29年、トヨエースが大ヒットしたことを皮切りにオート三輪は衰退してゆくのであります。

 代わりにダイハツミゼットなどの軽三輪車がヒットして軽貨物は軽三輪、大きな貨物は四輪トラックという時代になっていきました。

 こうして多くのメーカーが参入したオート三輪は昭和47年ダイハツが生産を中止、49年にはマツダも生産を中止しました。

また軽三輪もダイハツミゼットが昭和47年を最後に生産を終えました。

 尚、自動三輪乗用車もないわけではなく、ダイハツBeeは国内で唯一の小型三輪三輪乗用車として設計生産された三輪車ですが、昭和26年-27年にごく少量生産されただけで姿を消して一般にはほとんど知られませんでした。












posted by 健太朗 at 18:23| 京都 ☀| Comment(0) | ダイハツの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年02月02日

ダイハツのレーシングカー P5

  今日はちょっと変わったところでダイハツのレーシングカーの話をしましょう。

 昭和38年5月3~4日、鈴鹿サーキットに於いて第1回日本グランプリレースが開催され、日本のモータースポーツの幕が開けられました。

 これ以前は日本にはクルマのレースなどありませんでした、いえいえ、全くなかったわけではありません、それこそ大正時代には日本自動車競争倶楽部という団体が出来ていますし、東京の多摩川河川敷には楕円形のコースを持ったサーキットがあったそうです、鈴鹿サーキットを作った本田宗一郎親爺さんは戦前の昭和11年、その多摩川サーキットでフォードに自作のターボチャージャーをつけたマシンで出場しています。

 戦後の復興期にはオートバイのレースが船橋オートレースや富士登山軽オートバイ競走大会など、盛んに行われたそうですが、四輪車のレースは目立ったものといえば、日産がダットサン210のオーストラリアモービルガストライアル優勝があるほか昭和34年の第1回日本アルペンラリーがあるくらいです。

 ですから昭和37年に鈴鹿サーキットが出来てから日本で本格的な、そして国際的なレースが出来るようになったわけです。

 第1回日本グランプリでは、クルマもドライバーも外国から招待し国際スポーツカーレースとしてこの日のメインに位置づけされました、ロータス23、ジャガーDタイプ、ポルシェカレラやアストンマーチン、フェラーリ250など見たことがないような世界の名車がこのレースに出場したわけです、これによって20万人もの観客が見物に訪れたといいます。

 そして国内レースでもトライアンフ、MG、スプライト、Eタイプジャガーなどが活躍する中、コンテッサ900、フェアレディ、スズライトなどが先頭を走りました、中でもパブリカ、コロナ、クラウンのトヨタ3車種がそろって優勝するといったハイライトもありました。

 第2回日本グランプリでは、フォーミュラレースにデルコンテッサが出場し、スカイラインGTとポルシェ904の記憶に残る接戦があり、ホンダS600、ブルーバード、グロリアなどの優勝もありました。

 このように各メーカーがワークスとして力を入れる中、勝ったメーカーは拡販につながるほど効果があったので、ダイハツもコンパーノスパイダーで全日本自動車クラブ選手権レース大会などに出場しますが、なかなか成績を上げることは出来なかったようです。

 さて昭和41年1月3日富士スピードウェイがオープンし日本グランプリレースもこの年から富士に舞台を移します。

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 コンパーノベルリーナのボディをファーストバックにしたり空力を意識したP1、P2、を経て本格的なプロトタイプボディP3を開発、このP3、2台は第3回日本グランプリレースに出場しクラス優勝しています。

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 しかしこの第3回こそ各ワークスチームが最も力を入れてきた大会でした、60周回360kmという長距離レースとなり、初めて燃料補給などのピットインが必要となるレースで、プリンスR380、トヨタ2000GT、デイトナコブラ、Eタイプジャガー、ポルシェカレラ6など大排気量のマシンがデッドヒートを繰り返し数々の事故もあり、今では考えられないピットワークの失敗などで混戦する中、1000ccの小さなエンジンで着実なレース運びで総合7位、クラス優勝でフィニッシュにました。

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 その後ダイハツは第4回日本グランプリレースを目指してP5を開発します、こちらはコンパーノの車台から本格的なチューブラーフレームが採用され、全長3850mm、エンジンもDOHC・1261ccに引き上げられ、130ps、最高速度は240km/hに達しました。

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 レースにはピットにスペアのタイヤや給油機も持ち込んで万全を期しての挑戦でしたが、レース直前になって主催者側で、

 「性能が大きく異なる車が一緒に走ることによる危険の防止」

 という理由で予選タイムが2分20秒を切らなければ失格と言うことになってしまったのです。

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 もちろんR380やカレラ6には問題ない数字ですが小排気量のP5や日野サムライなどにとってはきびしい条件になって、P5は僅か0.6秒差で失格となってしまいました。

 昭和43年の‘68日本グランプリではさらに改良が加えられP5は4台が出場し、トヨタ7、ニッサンR381、ローラT70やポルシェカレラ10など最新のマシンに混じって、ラップタイム2分9秒2を記録します。

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 成績は総合では10位ですがクラス優勝を果たし、マクランサに割り込まれますが3位から5位を独占しました。

 ちなみにマクランサはホンダS800をベースに京都の童夢が開発したマシンです。

 その後もP5は鈴鹿1000kmレースや300kmレースなど主に長距離レースで表彰台に上がる活躍をしますが、これにはP5の燃費の良さがあります、1000kmレースに於いても途中1回しか給油のためのピットインをしなかったという伝説のような話が伝わってきます。

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 しかし翌年、昭和44年の鈴鹿1000kmレースを最後にダイハツはP5によるレース活動から撤退します、背景にはトヨタとの業務提携があったことは間違いないのですが、その実、クラス優勝を繰り返しても、総合優勝のような派手さはなく大きな宣伝効果は見込めず、大きな経費を掛けることの無駄を続けられない会社の事情もあったようです。

 昭和45年にはケイヨウGTという名前で個人参加を果たしますが、その年限りで姿を消しました。

 そして今でもダイハツ社内には黄色いP5が大切に保管されているそうです。











posted by 健太朗 at 22:14| 京都 ☀| Comment(0) | ダイハツの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする