2009年06月02日

憧れのホンダスポーツ・03

  やっと普通免許を取った年、ホンダのセールスマンが、スポーツ600の試乗車に乗ってやってきたので、ちょっとばかり乗せてもらえることになった。S60002  憧れのクルマに乗れるとあって、わくわくの私だった。


 ほんの10Cm位の短いシフトレバーのストロークは極端に小さく、こつこつとした感触は以前から知っていたし、細いウッドハンドルがシャープなことも人から聞いていたが、サスペンションの堅さと重いハンドルは、サーキットの助手席などでは知ることは出来なかった。


 それでもその軽快な身のこなしと鋭い加速感はそれまで2サイクルの360軽自動車や鈍重なヒルマンやコロナ、スカイライン等しか知らない私には別世界のクルマに見えた。


 強烈な加速といえばその時、自動車屋のかどから次の交差点までのほんの数10mの間をフルスロットルで発進すると、このクルマはローとセカンドで70Km/hにも達した、
 軽自動車でせいぜい3~40Km/h、私が乗っていたコロナ1500で50Km/h位だった、ついでにいえばこの同じ場所で44年、ホンダ1300・77が90Km/hに達した、また、45年のカペラロータリーはついに100Km/hを越えた。(よいこはまねをしないように)

 初めてスポーツ600に乗ったその半年後、同じクルマに乗る機会があった、が、それはそれは見る影もなく、がさがさというエンジン音とくたびれた加速感に大いに失望したものだった、先にベアリングのせいだと書いたが、それは77もカペラもおおむね同じようだったので、この頃の高性能車(三車とも特殊なエンジン)の耐久性というものは、今では想像も出来ないほどのものだったのだろう。

  それはボディにしても同じ事で、私の自動車屋で販売したS800やS600の雨漏りは最後まで治らなかったし、SFに持ち込んでも、そんなの当たり前、というほどの扱いでしかなかった。


  SF(サービスファクトリー)というのは、まだホンダが4輪車を発売して間がない頃、ディーラーというものがなかった。
  で、販売は自転車屋、バイク屋さんが担当していたので、修理や整備はホンダ直営のSFと呼ばれる工場で行っていたというわけだ。
  ちなみに2年5万キロという新車保証をうたったのは、おそらくホンダが初めてだったと思うが、それ故にホンダSFはかなり忙しそうだったという記憶がある。

  以前にも書いたと思うが、もう3・4年も前になるだろうか、同業者からクラシックなS800が持ち込まれ、車検整備をしたことがある。
  こういう古い車の車検の場合、排気ガステストで苦労する、何しろまだ排ガス規制など思いも寄らなかった時代のクルマなのだ、特に高性能車は走らせる為には燃料を食わすのが一番、という考えに基づいているのだから、排気ガステストに合格する為にキャブレターで燃料を絞れば調子が悪くなるし、そのまま無理に走れば不完全燃焼を起こして、かえって排気ガステスターの針は上がってしまう、こんなことを繰り返して最適な調整をするのだが、キャブレターが4つも付いていればなおさらである。

  私自身久しぶりの4キャブ調整とあってかなり入れ込んで仕事に掛かったのだが、そこは昔慣らした杵柄、自分でも驚くほど簡単にうまく調整が出来た。
 これを見ていた同業者やギャラリーから拍手喝采をもらったというわけだ。

 最近、といってもホンダS2000が発売されたのが、1999年というからもう10年にもなるのだが、友人のI君が青いS2000をレース仕様に改造して乗っている。何でも岡山県にあるサーキットでレースを楽しんでいるとか。
  その昔、60円のコーヒー一杯で何時間もカー談義をした頃、私と同じようにスポーツカーにあこがれた仲間なのだが、私と違うところはしっかりおカネを儲けていること、そして今なお青春していることだ。

 自動車大好き少年の大失敗は、好きなクルマに乗りたいなら自動車屋になるよりもっとおカネ儲けをしなくっちゃならないことに気がつくのが少々遅かったということ、かな。

posted by 健太朗 at 22:27| Comment(2) | TrackBack(0) | ホンダの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月27日

憧れのホンダスポーツ・02

   当時まだ中学生だった私はアメリカから輸入のテレビドラマ、ルート66(C1コルベット)やサンセット77(サンダーバード)、国産ドラマでは月曜日の男(MG TDミジェット)、バックナンバー333(コンパーノ・スパイダー)などで活躍するスポーツカーは手の届かない夢とあこが れのものだったが、ホンダの、当時としては珍しい新聞広告のこの価格を見て、なぜか、これなら買える、と思った。

    

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  なにしろこの頃のトヨペットコロナ(利休色のコロナ )が72万円、クラウン(駐車場のクラウン )が105万円、パブリカ38万9千円、それにまだ開発中だったトヨタS800は59万2千円の予想だったのだ、そして軽自動車のスバル360でさえ37年に値下げされたとはいえデラックスで39万円もした。

      
 だから、スポーツ50045万9千円は割安と感じて当然だったのだが、しかし明くる年、ガソリンスタンドでのアルバイトが時間あたり60円だったのだからこれは無謀な想念だった。      
      
   その後、自動車屋になった私は何台ものホンダスポーツにかかわった、スポーツ600,800,それにS2000にも少しずつでも関われたことは幸せなことだったと思う。      
 しかしあの時、これなら買える、と思ったのに40年以上たった今でも憧れのホンダスポーツのオーナーになったことはない。

      
S600       
       
 S800


 自動車屋になって間がない頃、勤め先の親爺さんが私たち新米のメカニックを鈴鹿サーキットに連れて行ってくれた。       
 その頃の鈴鹿はまだ遊園地の施設はなく、ただっぴろい所にサーキットだけが横たわっていた。クルマはどこにでも停め放題、どこででもミニレースが出来るくらいの広いところだった。

 

19660409  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 まだ二輪のレースが多かったパドックに入るのも比較的自由で、大きなレースがない限りパドック内に駐車することも出来たくらいだ。       
      
 そのパドックにS800が十数台も置かれていた。これは試乗車で、実は誰でも鈴鹿のコースでS800に乗ることが出来たのだ、だが悔しいことに私はまだ軽自動車の免許しか持っていなかった。

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   余談だが、早生まれというのは人より早く生まれたということかと思えばそうではなく、友達の中で免許を取れるのが一番遅くなるのが早生まれなのだ。      
   それでも助手席でのサーキット、そして憧れのクルマ初体験は今でも強烈な印象として残っている。

 

1966      
      
当時のパドックではこんな光景も見られた。ホンダ最初のF1、RA270をテストするロバート・バックナムとリッチ・ギンサーだ。
      
      
      
      
 

 

 

 なんといってもそのエンジン音だ。オールアルミ製の真っ白なエンジンの組み立て式クランクシャフトはなんとニードルローラーベアリングを使っていた、これはそれまでのホンダ二輪車と同じで、その頃乗っていたCL77とある意味共通の雑音を発していたのだが、自動車のエンジンでは世界初ではなかったろうか、そのベアリングが奏でるホンダスポーツサウンドは自動車大好き少年の心を魅了するにあまりあるミラクルサウンドだった。

      
  しかしこのエンジンの大きな欠点もこのベアリングにあったようだ。

posted by 健太朗 at 15:18| Comment(2) | TrackBack(0) | ホンダの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年05月26日

憧れのホンダスポーツ

 レクサスからIS250Cというカブリオレモデルが発表された。
 日産の370Zロードスターは今、大きな話題になっている、またスバルとトヨタの小型スポーツカーの共同開発は、順調に進捗している、というニュースもある。
 外国車では、MINIコンバーチブルやBMW Z4など、こんな元気のない時代にスポーツカーの話題に事欠かないというのは実にうれしいことだ。

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 だがそんな中、生産を中止するスポーツカーもある、ホンダS2000、インテグラもそうだ。


 ホンダは時代の変化に敏感だ、というより、ホンダは時代の流れを読むのが実にうまい。それは、スーパーカブ、CB72、N360、シビック、シティ、アコード等々、数多いヒット作やCVCCシビックに始まりHVインサイトに至る公害対策車、更にホンダのレースとスポーツカーの輝かしい歴史を、そしてその時代を見ればよくわかる。
 そういう意味ではホンダがレースやスポーツカーからの撤退するというのは、ホンダ一流の時代の読みなのかもしれないが、ファンにとっては寂しい限りだ。

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 昭和38年、アメリカではオートバイと呼ばずにホンダというくらいに、二輪車で世界制覇を果たしたホンダは四輪車に進出、その最初のクルマはホンダスポーツ360だった、これは惜しいことに、ついに発売されなかったが、オールアルミ製DOHC、4連CVキャブレターのエンジンはT360という軽トラックに移植された。
 このT360軽トラの楽しさは別の機会に書きたいと思うが、こんな楽しい軽トラは後にも先にもこれしかない。

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 スポーツ360と同時に発表されたスポーツ500は38年7月に発売され、大きな話題となった、私はこれこそが日本の自動車社会の幕開けだと思っている。
 発売された当初の新聞にスポーツ500の一面広告があった、私はこれを今でもどこかに残しているの思うのだが、いくら探しても出てこないので想像していただきたい。

 アメリカ大陸の砂漠地帯を貫く遙かな直線道路をただ一台左ハンドルのスポーツ500が疾走する、これを正面やや上のアングルでとらえた写真、新聞一面の大きさだ、大柄なアメリカ人が二人上半身をクルマからあふれ出すように乗っている。
 アメリカ大陸でテスト走行する日本初の100マイルカーホンダスポーツ500、などのキャッチコピーとともに45万9000円の価格が表示されていた                                      

posted by 健太朗 at 22:56| Comment(0) | TrackBack(0) | ホンダの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする