2012年02月22日

BC戦争のB・ブルーバード

 そのムカシBC戦争があった、Bはブルーバード、Cはコロナだ。
最初のモデルは昭和30年1月登場の110型ダットサン(水冷直列4気筒2ベアリング・ サイドバルブ 排気量860cc・25馬力)これが好評で、日本の貧乏を肯定した健康的なデザイン、と評された。


 この頃はタクシー需要が主で、中型はクラウンRS、小型はダットサンという構図だった、その小型市場へトヨタはトヨペットコロナで対抗しようとする。


 実はコロナは結果的に2代目となるT20型を開発中であったが、タクシー業界の強い要望で急遽、すでに生産中止されていたトヨペットマスターの車体骨格の一部とドア、クラウンの足回りを組み合わせて古いサイドバルブエンジン(995cc・33馬力)を載せたST10型を創り上げた。

 どちらも今の軽自動車より少し長いくらいの大きさだったが、これが当時の小型タクシーの上限だったのだ。


 コロナが生まれた昭和32年、日産はオースチンで培った技術でオーバーヘッドバルブの1000㏄エンジン(34馬力)を載せてきた、ダットサン1000・210型だ。
 これが神風タクシーのフレーズを生み、オーストラリア一周ラリーにも参加して大きな注目を浴びることとなる。
 一方コロナの方は、だるま、の愛称で親しまれ、P型1000㏄45馬力OHVエンジンに換装してようやく100km/hが可能となったがダットサンの人気には及ばなかった。

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                                 これはマイナーチェンジ後のモデル

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 昭和34年8月、ダットサンはブルーバード310型にモデルチェンジする、テールランプの形から、柿の種、とあだなされ人気を呼んだニューモデルは、従来型の1000㏄と新型1200㏄のエンジンを用意していた。

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 このエンジンは当時としては実に合理的で、BMCのオースチンB型エンジンのストロークを変更してダウンサイジングしたものだった、そしてこの方式は後のサニーやチェリーにまで続いた。
 だからこの頃わりと当たり前に行われていたエンジン換装という作業も比較的楽に出来るというメリットもあった、例えば1000㏄タクシー上がりの安いクルマを買って事故車の1200㏄エンジンを載せるとか、理論的にはオースチンの1500㏄エンジンもこのブルーバードに乗せることが出来たはずなのだ。だが私たち新米メカニックにはあのプラスアースというイギリス式の電装周りには泣かされたものだった。

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 昭和30年代後半から40年代にかけて、一般庶民にもマイカーが急激に浸透するのだが、やはり310の主たるオーナーはタクシーであって、保守的なデザインと堅牢な構造は必修であり、実際運転をしてもしっかり感が随所から伝わってくる、ことに停まらなくてもローギヤにシフトできる、フルシンクロ、とかちっと決まるシフトフィールは一般ユーザーにも好評だった。


 昭和35年にはコロナがいよいよ二代目PT20型にモデルチェンジする。大規模なティザーキャンペーンやドラム缶を積んだ壁を突き破るコマーシャルフィルムで前評判は良かったのだが、残念ながらエレガントでスマートに見えても頑丈なイメージには乏しく、この時代もブルーバードに軍配が上がったようだ。

 昭和39年になるとブルーバードは410に、コロナはあのRT40に移行する。
コロナはココロ入れ替えてまったく凝ったデザインを排除し、質実剛健というクルマ、これが大衆にうけて空前のベストセラーカーになる、片やブルーバードはピニンファリナデザインの欧州風尻下がりスタイルが全くの不評、すぐにマイナーチェンジしておしりをあげてみるが四角いコロナに惨敗となる、さらに44年、四角い510をデビューさせいくらか巻き返すもこの辺りでBC戦争は徐々にその火が消えて行くのである。

 コロナはRT60コロナマークⅡになって大きくなり、ブルーバードもまたブルーバードUに格上げ、これもまたマークⅡに軍配が上がることとなって、ブルーバードはバイオレットとその名を変える、こちらは逆に反り返った波形デザインが一般には受け入れられず、ハッチバックはタクシーに嫌われ、とさんざんだったがノッチバックにマイナーチェンジしてからはタクシーに多く使われている。


 そして現在はブルーバードはシルフィー、コロナはプレミオを名乗っているが、すでにこの手のセダンスタイルに人気は集まらずタクシーは専用車に替わって、あまりお目にかからなくなったがどちらもすでに成熟の域に達してすばらしい実用車になっているので、何か安心して乗れる感がある。

 

  

posted by 健太朗 at 22:48| Comment(0) | TrackBack(0) | ニッサンの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年02月07日

父ちゃんのチェリー

   ヒステリックとかスパルタンという言葉を雑誌のカーインプレッションに見なくなって久しい。
  チェリーX1はそのスパルタンなクルマの代表ともいえるくるまであった。


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 昭和41年、サニー1000はパブリカ800の対抗馬として世に出たが、トヨタはこれにカローラ1100を当ててきた、そして「プラス100の余裕」とキャッチフレーズし、あっさりとこのクラスの首位を奪ってしまった。
   これに対し日産はサニーを1200にして一回り大きくし、「となりのクルマが小さく見えます」とやったものだ。


  となると、やはりもう少し小さい、リッターカーと呼ばれるものが必要になってくる。パブリカも44年には1000ccに変身していたからである。


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こうして昭和45年に現れたのがチェリー1000である

 日産はこの車に前輪駆動を選んだ。エンジンミッションを二階建てにしたイシゴニス方式だ。しかもエンジンはオースチンの流れをくむA型4気筒だから、ボンネット内の景色はミニとそっくりだった。


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 この頃まだ前輪駆動はホンダやスバルなど数車しか無く、げてもの扱いをする人が多かったし、トヨタや日産などの大メーカーはやらないだろうと思われていたのだが、日産にとってはトヨタに先行してFF車を開発することには大きな意味のあることだった、合併して間がない旧プリンスの技術を生かし、新しい販売チャンネルを作る事が出来たからだ。


  そしてトヨタが初のFF車、ターセル・コルサを発売するのは8年も後の昭和53年のことになったのだから。

  
  チェリーのスポーツタイプ、X-1はプリンスでの開発コードネームをそのまま受け継いでいる。
  私の友人の父ちゃんこと I 君が乗っていたのはこのX-1で、しかも48年に追加発売されたチェリークーペであった。  
  私がスパルタンと表現するのはまさにこのクルマのことで、SUツインキャブの荒っぽい飛び出し感と、車両重量655kgに80psと言う強烈な馬力加重の加速感でまさにじゃじゃ馬を乗りこなすという印象が強いクルマだった。
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  ある時、父ちゃんのチェリークーペを運転して京都北部のワインディングロードを走った。


 もちろん私はFFの癖というものを知らないわけではなかったが、チェリークーペの扱いにくいほどにふけ上がりのいいエンジンと軽い車体は、ドライバーがカーブの途中で怖がってブレーキペダルを踏んづけようものなら、一気に姿勢を崩してしまう。


  そのときこの父ちゃんは助手席で笑いながらおもむろにFFの走り方をレクチャーしてくれたものだ。
 曰く、「カーブの手前で十分速度を落として、パワーオンでカーブにはいる。スローインファーストアウトだ」と。
「そんなことはわかってる」とは言いながら彼の言うとおりにやってみる。

 だがそれでもカーブの後半、速度が上がりすぎてつい右足をゆるめてしまうのだ。
それでもまた横から叱咤激励の声が飛ぶ、「もっと踏め!」。

 
 当時のFF車、例えば、シビックやスバル1000、ミニやN360などに乗っておられた方には解っていただけると思うが、本当の意味で前輪駆動のドライビングを私はこのクルマで覚えたような気がする。  
  現在の前輪駆動車では、全く癖は無く、言われなければFFかFRか判らないほどに進化した。だからこんな話はわかってもらえないだろうし、また全く必要のないテクニックになったのだ。


 これは実にすばらしいことだと思うが、ちょっと寂しい気がしないでもない。

posted by 健太朗 at 22:24| Comment(7) | TrackBack(0) | ニッサンの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年02月26日

ヨットみたいなフェアレディ

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 19歳の夏も終わりの頃、快晴の日曜日、私は彼女を誘って借りもののフェアレディでドライブに出かけた。

 琵琶湖岸をさわやかな風に髪をなでられながら奥琵琶湖へ、湖岸のレストランで食事をし、帰路、坂本のビワコロッジに立ち寄った。ここではY15というディンギー級の木製ヨットを時間貸しでレンタルできた。

 このとき彼女の言った言葉が、「このクルマ、ヨットみたい」だった。

 確かに3人乗りの後席は横向きに座るのだ、ここに座るとボンネットからトランクフードにかけて真っ平らに見えるので、ちょうどヨットのデッキに腰掛けるのと同じような感じがする。

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 この1962年型5年落ち、スカイブルーのダットサン・フェアレディは自動車屋の同僚が友達の友達のそのまた友達あたりから仕入れてきたクルマで、中古車としては極上のきれいなクルマだったがちょっとした傷を治すために塗装をはがすとスカイブルーの下に赤、黒、そしてシルバーの塗装が出てきた。どうやらオーナーが変わるたびに全塗装をしたようだ。

 それにどうもキャブレターの調子が良くなかった。

 当時の私はツインキャブの調整を少しばかり得意としていたので、よくお手伝いをしたものだったが、今でも解せないのはこのSUツインキャブの調整がうまくないとエンジンがオーバーヒートしてしまうと言う怪現象があった。
 この頃のSUキャブはスロー回路というものがなかった、つまりメインジェットだけでアイドリングから全負荷までカバーしていたわけで、だからアイドリング調整が非常に難しく、まして二つのキャブをバランスよく調整してやるのは至難の業なのだ。しかしそれは当時の工業製品の精度や耐久性がまだまだよくなかった、と言うことなのだろうと今では思っている。

 昭和40年代中頃になるとベアリングやジョイントなどの耐久性が急に良くなったと感じる時期があって、SUキャブもちょうどその頃から強くなったりスロー回路が出来たりでずいぶん調整しやすくなった。
 だが48年の石油ショックの頃までにツインキャブは消えてゆく運命にあったのだ。

 SP310型フェアレディは、ダットサンスポーツとも呼ばれた輸出専用だった初代S211から'62年10月にモデルチェンジした、310型二代目ブルーバードのシャシとセドリックの1500ccエンジンを使ったロードスターだ。

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(これがダットサンスポーツS211、4人乗りだ。)

 このブルーバードの車台は整備性があまりよろしくなく、特にタイロッドがフレームの中を通っている、オースチンの流れでインチネジとミリネジが混在している、バッテリーがプラスアースであるなど当時の新米メカニックを泣かせてくれたものだった。

 しかし走ってみるとこれは凄いと思わせるほど軽快で鋭い加速感があって、セドリックやブルーバードの鈍重なイメージとはちょっと違うものだった。
 まぁ当時の1500CCのエンジンと言えばせいぜい60数馬力、それで1トン以上のボディを運ぶのだからおっとりした時代だったのだ。

 フェアレディが1961年の東京モーターショウに初めて出品されたときの雑誌の記事を少し引用する。

 「エンジンは従来のブルーバード1200のものに変わって、セドリックの1,488cc、71HPが載っておりギヤボックスも4速のフロアシフトである。車重は870Kgだから馬力荷重は12.25Kg/HPに過ぎず、相当に軽快な加速が期待できる。低いボンネットラインを得るために、セドリックのダウンドラフトキャブレターに変わって、ショーモデルでは日立製のSU型サイドドラフトキャブレターが1個使われている。」

 もちろん市販車ではツインキャブの80馬力なのだが次のようにも書かれている。

 「セドリックのエンジンはまだまだチューニングの余地が大いに残されているから、将来、ツインキャブを付け、圧縮比を上げカムプロフィルを変えるなどすれば、フィアット1500程度の性能には比較的容易に達するのではあるまいか。」

 まだまだ「上等舶来」の時代だ。


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(輸出用のカタログから)

 「このクルマは本来は輸出向きであるが、国内用にも注文に応じて作ると云われる。」

 スポーツカーが日本に定着するのはもっと後の時代だったのだ。

 ちなみに彼女とのヨットハーバーの恋は「ひと夏の思い出」となったことは言うまでもない。


posted by 健太朗 at 22:37| Comment(0) | TrackBack(0) | ニッサンの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする