コンソルソ・デレガンツァ京都2018 その拾弐

 我ながら夢中になってコンソルソ・デレガンツァ京都2018のことを話していたら、もう12回目になってしまいました。

 いいかげん、イタリアから日本に戻ってきてこの展示会にたった2台だけ展示されていた国産車の話をして最終回にしたいと思います。

 その2台とは外国でもその名が通っているダットサンです。

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 ダットサンのルーツ、快進社自動車工場は1911年(明治44)九州の崎戸炭鉱所長だった橋本増治郎によって吉田茂の所有地だった東京広尾で創業されます。
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 そしてその3年後の大正3年、東京大正博覧会に脱兎号が出品されます、V型2気筒10馬力3人乗りというクルマで、我が国初の純国産自動車として表彰を受けます。
 脱兎とは快進社の支援者であった田健治郎、青山禄郎、竹内明太郎の頭文字D、A、Tを採ったもので、非常に速いことの例えで「脱兎のごとく」にかけて名付けられました。

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 快進社はダット自動車製造を創立します、さらに昭和5年、脱兎号の車名をダットソンとします、しかしダットソンの生産・販売には多くの資金が必要なため、ダット自動車製造では耐えきれず、親会社である改新社は手放すことを決意。昭和6年、鮎川義介の戸畑鋳物が買収というかたちで合併、戸畑鋳物は東京での販売拠点として昭和7年、銀座にダット自動車商会を開きます、ところがその開店準備中に店舗が洪水に見舞われます、そのとき、ちまたでは「ダットソンのソンは損に通じる」といううわさが立ち、日の出の勢いを意味して太陽の サンに変え、ここにダットサンの名前が生まれたという逸話があります。

 そしてこの時から社名を日産自動車へ変更、ダットサンは主にニッサンの小型車のブランド名となりました。

 ダットサンはこうして誕生しましたが、現在、動態で保存されているものはニッサン・ヘリテージにあるダットサン14型フェートンだと公式には言われています、でもネットにはもっと古い11型の、更には脱兎号1号車の写真も見られます。

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 今回コンソルソ・デレガンツァ京都2018で展示されていたダットサン・スポーツ DC-3ですが、スポーツカーと位置づけされたダットサンの最初の作品だと思われます、つまりこれがフェアレディのルーツです。

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 DC-3は昭和27年から29年まで50台程度生産され、はしご形フレームに太田祐一デザインのボディを載せ、バルクヘッドより後はセダンにもトラックにもなる構造です、そこに水冷直列4気筒サイドバルブ860ccエンジンを搭載して4人乗りスポーツカーに仕立てたクルマです、馬力などは判りませんが全長3510mmですから今の軽自動車くらいで、750kgの車体を80km/hで走らせる性能を持っていました。

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 展示車のクリームとグリーンというボディの洒落た色使いは大方の古いクルマに対するイメージを好転させるものではないでしょうか、こんなクルマが自分のガレージの隅っこにあったらいいな、なんて夢のようなことを考えてしまいました。

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 さてDC-3 の後継車はS210型ダットサン・スポーツ1000で昭和32年に発表された4人乗りのオープンカーです、シャシはダットサンセダン211型から流用したラダーフレームで4輪リーフリジットに4輪ドラムブレーキ、エンジンはトラックやセダンと同じC型OHV988 cc にツーバレルキャブレターを装着、34馬力を発生して最高速度は115 km/hと発表されています。

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 実はこれはDC-3の隣に展示してあったダットサンフェアレデー1200SPL212とは同じクルマなのです、そしてこれこそが初代フェアレディなのです。ただし当時の表記はフェアレデーでした。

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 S211はボディにFRPを使っていましたがSPL212はスチールに換わっています、シャシは同じですが、前輪はダブルウィッシュボンの独立懸架、エンジンはE型OHV1,189cc換装され、48馬力最高速度は132km/hとなっています。

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 SPLのLが示すとおりこのクルマは輸出用ですべて左ハンドルでしたが数台はそのまま国内でも販売されたようです。

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 恐らくMGなどの欧州製スポーツカーがモデルになったのでしょうが、それほど洗練されたものではなかったのでしょう、昭和35年37年までの生産台数は500台ほどに留まりました。

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 ちなみにフェアレディの名はミュージカル映画「マイ・フェア・レディ」から、当時の川又克二社長が命名したものといわれています。

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 このような国産クラシックカーは貴重な文化財、工業製品技術遺産ですから、国を挙げて末永く守っていってほしいものだと感じます。

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濃すぎる理由/スカイラインGT

 たまには元メカニックらしい話をしないといけませんね、と思っていたら古い日記にこんなのがありました。

平成112月の日記です。


  最近整備業界も大変厳しく、車検は単価が下がる一方、定期点検は数が少なくなり、小修理に至っては故障そのものが少なくなって来ています、それでたまに入庫した故障がコンピューターに関連するものであれば、設備や技術力に乏しい町工場では、診断の段階で時間がかかりすぎて全く商売にはなりません。それでもお得意様からの依頼であれば避けて通るわけにも行かず、果敢に挑戦するのであります。


  マフラーから黒煙をもくもくと吐きながらぶすぶすと異様な音を立てて入庫してきた車は、スカイラインGT、62年式HR31、エンジンはRB20ターボ車です。

暖機冷機や負荷にかかわらずおしなべて混合気が濃すぎるようです。早速診断に取りかかります。


  まずトラブルシューティングチャートで見当をつけることにします。

黒煙を吐くほどガスが濃いのですから、バキューム、と水温、スロットルの各センサー、それにエアフローメーターを調べる必要がありそうです。

  手持ちの資料で、この車にはバキュームセンサーはなく、エヤーフローメーターはホットワイヤー式である事が判りました。

日産のホットワイヤー式エヤフローメーターの古いタイプのものは故障が多いという記述も見つけました。


そこでまずエヤフロから取りかかる事にします。

はじめにカプラーをはずしてみました、すると、アイドリングは不安定なものの千から二千回転では普通に吹きあがり、二千回転でハンチングします。これはフェイルセイフ機能によるものと思われます。

つまりエアフロに不具合があるという証左です。

  もうこれは解決しました、エアフローメーターを交換すれば良いのです、しかしここでもう一息待ちましょう。

これではKKD(観と経験と度胸)です。

私にはDが足りません。デーラーに電話をしてエアフロ単体での点検方法を教えてもらうことにしました。


曰く、エアフロの出力信号(電圧)を測定する。キーオンで1Vと云う事でした、早速計ってみますと1.6Vあります。ほっとワイヤーに息を吹きかけると2.5Vまで上がります。

ちなみに手持ちの資料でもCPUの端子で1.1Vとあります。間違いなくエアフロの不良です。部品を注文してこの日は他の仕事に就きました。


  明くる日、到着した部品、新品のエアフローメーターを取りつけてキーをひねります。

ところがどうでしょう、全く直っていません、相変わらず真っ黒な煙を吐いてぶすぶすと吹き上がりません。どうしたら良いのでしょう。手持ちの資料をめくるとVGエンジンに1.6Vのものがあるようです。

さては部品の間違いかと思って日産部販で確かめますが間違いないとのこと、VGRBでも同じだというのです。

  もう一度デーラーに電話します。今度は昨日とは違うサービスマンが応対してくれました。昨日と同じ事を訪ねるとエアフロの出力信号は1.6Vが正しいと言うのです。それでは昨日の間違いは何だったのでしょうか。

おそらく年式による違いでしょう、こうなると手持ちの資料も全く当てになりません。しかしそれに文句を言ってこれ以上教えてくれなくなってはお手上げです、ぐっとこらえて何度も確かめ、他のセンサー類の点検方法も教えてもらい、気を取り直して一からやり直しです。


  だがこれからが大変です。教えてもらった各センサーをすべてチェックし、インジェクター、バルブタイミング、それにコンピューターの自己診断機能もチェックしましたが全く異常ありません。無駄なことと知りながらヒューズやターボのプレッシャーセンサーまで考えられるものを片っ端からチェックします、燃料タンクのガソリンも交換しましたがクルマは何とも答えてくれません。


  そろそろ万策尽きたと言う言葉が脳裡をかすめます。燃圧計をじっと見つめ考えるともなくぼーっとしていますと、ほんの少し燃圧が高めなことが気になり始めました。

燃圧を制御しているプレッシャーレギレータは、マニホールド負圧によって働いています。それではとバキュームゲージを取りつけてみます。安定しないエンジン回転を何とか安定させてみますがバキュームゲージの針は400から上がりません。

やはりこれは何か物理的な故障に違いありません。


  バキュームホースなどをチェックするうちに変な事を思いつきました。エアフロに吸気を通さなかったらどうなるの、と云う事です。まずは簡単にスロットルボディの手前でダクトをはずして、つまりエアフロやターボなどを通さずに直接空気を吸わせるのです。

  幾分良くなりますがやっぱり黒煙を吐きます。良く見るとこの状態でもエアフロは空気を吸い込んでいます。ターボチャージャーはアイドリングでも回転しているのです。

やはりエアフロ本体をはずしてみなければ判りません。

はずしてみるとエンジンはかかりません。

当然です。エアフロに空気が通らなければインジェクターは燃料を噴射しないのです。エアフロを通る空気量によって噴射量を決めているのですから。


  従ってエンジンが吸い込む空気量よりエアフロを通る空気量の方が多ければ、インジェクターの噴射量が多すぎて、エンジンに濃い混合気を送ると云う事になるのです。

試しにエアフロを直接スロットルボディの手前のダクトにガムテープでくくりつけてみました。全く嘘のように調子よくエンジンが回りました。


  やっと光が見えた思いです。原因はターボチャーシャーにあるのでしょうか。

ターボで発生した過給圧がどこかで漏れているということかもしれません。

ターボチャージャーのシャフトで吹き抜けを起こしているとしても排気が吸入側に吹き抜けることがあっても、吸気が漏れることはないはずです。と云う事はターボ以降で漏れているのです。


  インタークーラーです。このクルマのインタークーラーはヘッドライトの下、フェンダーの中に隠すように埋め込まれています。

カバーをはずして覗き込みますが別段異常があるようには見えません。紙切れの吹き流しで空気の流量を見てみますと、確かにターボへの流量はターボの出口で噴き出されますがインタークーラーの出口には出てきません。ままよとばかりにこれをはずしてみますと、瞬時にばらばらになって落ちてきました。プラスチックのタンクは割れ、コアも歪んでいます。


  クルマのボディに外傷はありませんが何かの衝撃が加わったとしか思えません。

お客様に報告するとご自宅内で水道かなにかの工事中、クルマが邪魔になるというのでキーを預けたとのこと、どこでどんな衝撃が加わったのか今となっては判りません。

とまれ、三日もかけてやっと判った故障診断、わが社の経営者のこれでは商売にならないとばかりの渋い顔を見るのも辛いものがありますし、メカニックとしてはまったく恥ずかしい限りですが、土壇場で吸気の流れに思い至ったことは天啓の如し閃きと自画自賛している次第です。

舶来国産車・オースチン

 昭和20年、太平洋戦争が終わって混乱の中から人々は懸命に復興に取り組みました、私は「戦争を知らない子供たち」の一人ですから、諸先輩方の筆舌に尽くせぬほどの奮闘努力のおかげで今日の私たちの生活があるものと無限なる感謝しかありません。
 

 ダットソンで始まって、戦前からダットサンを造っていた乗用車の老舗、日産自動車はしかし先進国の自動車技術に大きく差を付けられていた昭和27年、イギリスの BMC社(同年オースチンとナッフィールドが合併)と技術提携をしました。

 実に33億という大金で横浜の鶴見工場を整備し、昭和28年、オースチンA40サマーセットをノックダウン生産し、9月第1号車を完成させます。
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 この年、いすゞヒルマンと日野ルノーも発売され、舶来国産車の御三家がそろいます。

 ところが、イギリスのオースチンでは29年9月にはA50ケンブリッジへとモデルチェンジしてしまいます、後進国には旧型で充分だと思われたのでしょう、まったく馬鹿にされた話です。
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 しかし日産は最新技術を習得するためにノックダウンを始めたのですから、即、A50に切り替えます、これにはせっかくの投資も大きな損になりましたが、この決断は後の日産に大きな発展をもたらします、オースチンノックダウンから得た技術は、昭和34年発売の初代ブルーバードや昭和35年の初代セドリックに生かされました。

 例えばエンジン、A50のB型(日産名1H型)エンジンは特に高い性能を持ったエンジンではありませんが、使いやすく造りやすく丈夫なエンジンでした。

 

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 ですからダットサンのC型E型を初め日産製の中核エンジン技術となっていったのです、記憶に新しいところではサニーやチェリーにもオースチンの流れをくんだエンジンが載っていました。

 それでもA50ケンブリッジの性能は、昭和30年前後の国産乗用車とは比較にならない優れたものであり、当時の愛好家のステータスとして人気があって、中でも、ほとんど英国製部品を使用した本革張りセパレートシートの初期型は中古車になってからも人気が高かったそうです。

 ただ、当時のイギリス人向けの設計は、日本規格の限界まで大きくしたライバルのトヨペット・クラウンなどに比べると後部座席のゆとり、などの魅力に欠けていて評価は必ずしも高くなかったそうです。

 

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 私は舶来国産車御三家のうち、オースチンだけは整備に関わったことがないのが残念でなりませんが、短時間乗ったイメージでは初代セドリックとよく似た乗り味だったと記憶しています。

 ともあれムカシのイギリス車は両足を前に伸ばし、ハンドルは近く、深く柔らかなクッション、柔軟性のあるエンジンはセカンドギヤで発進してそのまま5~60km/hまで伸びる、またトップギヤ20km/hからでも難なく加速する、実に乗りやすいクルマというイメージを持っています。

 

 昭和31年には完全国産化を達成しその後セドリック用の1500ccに載せ替えたりタクシー用にはベンチシートに換えて6人乗りになったりしましたが昭和35年、セドリックにその地位を譲るように消えてゆきました。

  ちなみにオースチンA50ケンブリッジの価格は109万円でした、初代セドリック1500は82万円、いすゞヒルマン83万円、クラウン1500も81万円ですからちょっとお高めです、でもフランク永井の「13,800円」というサラリーマンの月給を歌った歌謡曲がリリースされた年のことですから庶民にはどれも高嶺の花だったことに間違いありません。