2020年09月04日

カタログコレクションから・ダットサン1000

 ダットサンという名の由来は有名ですが、あらためて話すとそれは日産自動車の前身である快進社の時代の話です。

 橋本増治郎氏が大正3年(1914)完成したクルマにダットカーと名付けました、それは支援者であった、田・青山・竹内の頭文字のD・A・Tを頂いた、と言うことでした。

 その後、ダット自動車製造となって、DATの息子という意味でダットソンとしたのですがソンは損に聞こえるということから、太陽の意味のダットサンに改められたのが昭和7年のこと、販売会社ダットサン商会の吉崎良造氏が命名したといいます。

 さて、戦後の話ですが当初、戦前型のシャシに木工の骨組みを組んでボディパネルを組み付けていたダットサンも、昭和30年には戦後型のニューモデルを発売します。

 それがこのダットサン乗用車110型です。

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 エンジンは戦前型の直列4気筒水冷 2ベアリング、 サイドバルブ860 cc・25馬力でしたが、シャシは新設計、前後固定軸のリーフスプリングで悪路での耐久性を重視したレイアウトは、特にタクシー会社からの評価が高く、見てる間に町中にあふれるように増えていったと言います。

 私など、小学生でしたが、ダットサンのピッチングとルノー日野のローリングと、両極端の走りを興味深く見ていた記憶があります。

 しかし当時、日産自動車製は関東方面へ出荷され西日本へは三菱重工の前身、中日本重工製が販売されたそうで、こちらは雨どいがルーフパネルを一周する「鉢巻」と呼ばれる車体だったそうですから、私が見ていたのは恐らくその「鉢巻」の方だったのでしょうか。

 また、戦前のダットサンはブレーキとクラッチの間にアクセルペダルがあったそうですが、この110から近代的なレイアウトに代わったそうです。

 ですから近代の日産車はオースチンをきっかけに、このダットサン110から始まったと言えるのでしょう。

 そして昭和31年「日本の貧乏を肯定した健康的なデザイン」というなんだか馬鹿にしたような理由で毎日工業デザイン賞を受賞しています、日本の戦後復興10年というのはそういう時代だったのです。

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 さてさて、今回掲載するカタログ写真は昭和32年(1957)モデルチェンジしたダットサン1000乗用車210型のカタログです。

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 ボディデザインは同じですが、エンジンはOHV 988cc 34馬力のC型ストーンエンジンに換わります、このエンジンは昭和27年からイギリスBMCオースチンをノックダウン生産していた、そのオースチンA50ケンブリッジのBシリーズエンジンのストロークを縮めて小排気量化した、いわば即席改造エンジンなのですが、ダットサンをはじめとするその後の日産車に活用され、昭和40年代後半まで小型車用主力エンジンとして活用された優れもののエンジンなのです。

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 この手法を提唱したのは、当時、技術指導のために日産に招聘されていた、ウィリス・オーバーランド社のアメリカ人、ドナルド・ストーンというエンジニアで、すでに日産で開発を始めていた1000ccのスクエアエンジンを没にしてまでの計画でしたのでその名もストーンエンジンと呼ばれるのです。

 このモデルチェンジはこの年登場したトヨペット・コロナST10型に対抗するもので、ST10はサイドバルブですが 987cc33馬力であったのです。

 なんだか昭和41年のサニー1000とカローラ1100の話に似ていますね。

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 上の解剖写真の説明が時代を感じさせて面白いですね。

 特に、「寿命が長く、明るさ満点のセミ・シールド前照灯」、時代はこの後シールドビームに変わり、平成の時代には矩形ヘッドライトが主流になってセミシールドに戻っています。

「ボディーを安全に保護する強靱なバンパー」、この強靱なバンパーというのが乗員を安全に保護しないというのが現在の常識のようですね。

「クッション良く、耐久性強い5.00-15-4Pのタイヤ」、5.00はインチ表示ですのでタイヤの幅が127mm、しかもバイアスタイヤです。

 他にも12ボルトバッテリー、ウォーム・ローラー・ステヤリング・ギヤー、シンクロメッシュ式トランスミッション、吊り下げ式ペダルなどなど懐かしいフレーズが並んでいます。

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 blogのどこかに書いたかもしれませんが、ダットサンには若い頃の楽しい思い出があります。

 私がコロナRT20に乗っている頃、先輩のガンさんが乗っていたのがダットサン。エンジンが掛からないというのでボンネットを開けていろいろチェックしたあげく、クランクハンドルでエンジン始動、ここまでは当時よくある話ですが、ここからが変でした。

 さあ、と言うことでボンネットをバタンと閉めると、助手席ドアがガタンと勝手に開いた、えっなんで?、私が開いた助手席ドアをバタンと閉めると、運転席のガンさんが、わっ、、クルマの中を覗くと運転席の背もたれが後ろに倒れてガンさんがわめいている。

もうみんなで大笑いをしました。

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 もうひとつ嘘のようなほんとの話を。ガンさんと二人でやった遊びです。

 砂利をひいた広場でコロナとダットサンで頭を付き合わせて、それで押し相撲をやるんです、後ろのタイヤは砂利を飛ばしてスリップします、相撲はどっちが勝ったかって、そりゃあ車体が重いコロナに軍配でした。

 分厚い鉄板で作ったメッキバンバーを前後にぶら下げていた時代のクルマだからこそ出来たことですが、いったんバンバー同士が離れて二たびぶつかるような事があるとダメージになりますから、そりゃあ真剣に遊んでいましたね。
















posted by 健太朗 at 21:40| 京都 ☀| Comment(0) | ニッサンの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2019年09月25日

ミスター・ダットサン

 最近、ニッサンが元気がないので、フェアレディZのことをいろいろ考えていたら、古~い自動車雑誌の記事にこんなのがありました。

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 それは“ミスター・ダットサン”とか“ミスター・K”などと呼ばれた、特にアメリカで有名な、そして米国自動車殿堂入りを果たした日本人の話です。

 ミスター・ダットサンとは片山豊という方で、明治42年生れで平成27年105歳で天寿を完うされました。

 昭和10年日産自動車に入社、ダットソンからダットサンに換わった頃です。

 設計を担当することを希望していたのですが、宣伝部に配属されます、そこで水之江滝子や轟夕起子など戦前のそうそうたる大物女優を起用してダットサンを小型車の代名詞的存在に押し上げます。

 戦後、日産は戦前型のダットサンでいち早く市場に復活しますが、貧乏どさくさの時代、大企業でもフトコロは火の車。

 そんな時代に片山さんは自動車会社には象徴的なクルマが必要、それはスポーツカーだと思いついて、昭和27年、ダットサンスポーツDC-3を誕生させます。

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SPL212とDC-3

 昭和29年には全日本自動車ショウ(現在の東京モーターショー)初開催に協力、ギリシャ神話の青年が車輪を持つ姿のシンボルマークは片山さんの考案によるものだそうです。

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 鉄板をハンマーで叩いたり溶接して車体を作る時代から、プレスでボディを作る時代になり昭和30年ダットサン110がデビューし、プレスの他、組み立て、塗装、艤装を1ラインで生産する近代工法が注目されました。

 さらに32年には210に進化しました、戦前からのサイドバルブエンジンからOHV998cc34馬力と高性能になったダットサンを片山はラリーに出場させます、オーストラリア一周モービルトライアルです、スポーツカーの虫が甦ったそうです。

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ダットサン210

 出場67台の中、2台の210が出場し見事に完走し、富士号と名付けられた1台はAクラスで優勝、ダットサンの名は一躍世界に知られることになりました。

 ここで片山さんは日本での闘いは終えて、昭和35年、単身アメリカに渡ります。

 ロサンゼルスを中心に、ディーラーに飛び込みでダットサンを売り歩きます、しかし日産本社には反対勢力があって、ニューヨークに拠点を置くよう圧力をかけてきますが、片山さんの方が北米の自動車事情に詳しいため反対勢力は敗退、片山さんは晴れて米国日産の初代社長となり、日本人の細やかなサービスと日本車の機能性、特性で、日産車のアメリカでの地位を作りました。

 アメリカで悪戦苦闘しながら米国日産自動車を設立、210ダットサンからブルーバードに発展する過程で、またまたスポーツカーの虫が目を覚まします。

 日産本社を口説いて、210ベースのダットサンスポーツSPL212を誕生させ、それがやがて310ベースの1500、2000と発展します。

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ダットサン・スポーツ1500

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ダットサン・スポーツ1600

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ダットサン・スポーツ2000

 そして片山さんにとって集大成となるのがダットサン240Zです、それを50万台も売ってしまってその結果、アメリカのZカーファンたちはファザーオブZカー、ミスター・ダットサン、と呼び慕うこととなったのです。

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 アメリカの人たちはダットサンZの生みの親として平成10年、その功績をたたえて自動車殿堂入りで答えました。

 片山豊さんはアメリカを去るとき、当時の秘書にアメリカでの愛車240Z・70年型をプレゼントしたそうで、この記事の時点ではまだ現役だったそうです。

 その後、日産はダットサンの銘ブランドを捨ててしまいました、そして日産フェアレディZは今や消滅の危機を迎えています。

 ダットサンが産れてから消えるまでダットサンに尽くした片山豊さん、ミスターK、「ミスターダットサン」と呼ぶに相応しい片山豊さんは平成時代の終わりにふるさとの浜松市春野で天命を完うされました。

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フェアレディZ






posted by 健太朗 at 22:57| 京都 ☀| Comment(0) | ニッサンの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年07月29日

コンソルソ・デレガンツァ京都2018 その拾弐

 我ながら夢中になってコンソルソ・デレガンツァ京都2018のことを話していたら、もう12回目になってしまいました。

 いいかげん、イタリアから日本に戻ってきてこの展示会にたった2台だけ展示されていた国産車の話をして最終回にしたいと思います。

 その2台とは外国でもその名が通っているダットサンです。

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 ダットサンのルーツ、快進社自動車工場は1911年(明治44)九州の崎戸炭鉱所長だった橋本増治郎によって吉田茂の所有地だった東京広尾で創業されます。
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 そしてその3年後の大正3年、東京大正博覧会に脱兎号が出品されます、V型2気筒10馬力3人乗りというクルマで、我が国初の純国産自動車として表彰を受けます。
 脱兎とは快進社の支援者であった田健治郎、青山禄郎、竹内明太郎の頭文字D、A、Tを採ったもので、非常に速いことの例えで「脱兎のごとく」にかけて名付けられました。

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 快進社はダット自動車製造を創立します、さらに昭和5年、脱兎号の車名をダットソンとします、しかしダットソンの生産・販売には多くの資金が必要なため、ダット自動車製造では耐えきれず、親会社である改新社は手放すことを決意。昭和6年、鮎川義介の戸畑鋳物が買収というかたちで合併、戸畑鋳物は東京での販売拠点として昭和7年、銀座にダット自動車商会を開きます、ところがその開店準備中に店舗が洪水に見舞われます、そのとき、ちまたでは「ダットソンのソンは損に通じる」といううわさが立ち、日の出の勢いを意味して太陽の サンに変え、ここにダットサンの名前が生まれたという逸話があります。

 そしてこの時から社名を日産自動車へ変更、ダットサンは主にニッサンの小型車のブランド名となりました。

 ダットサンはこうして誕生しましたが、現在、動態で保存されているものはニッサン・ヘリテージにあるダットサン14型フェートンだと公式には言われています、でもネットにはもっと古い11型の、更には脱兎号1号車の写真も見られます。

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 今回コンソルソ・デレガンツァ京都2018で展示されていたダットサン・スポーツ DC-3ですが、スポーツカーと位置づけされたダットサンの最初の作品だと思われます、つまりこれがフェアレディのルーツです。

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 DC-3は昭和27年から29年まで50台程度生産され、はしご形フレームに太田祐一デザインのボディを載せ、バルクヘッドより後はセダンにもトラックにもなる構造です、そこに水冷直列4気筒サイドバルブ860ccエンジンを搭載して4人乗りスポーツカーに仕立てたクルマです、馬力などは判りませんが全長3510mmですから今の軽自動車くらいで、750kgの車体を80km/hで走らせる性能を持っていました。

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 展示車のクリームとグリーンというボディの洒落た色使いは大方の古いクルマに対するイメージを好転させるものではないでしょうか、こんなクルマが自分のガレージの隅っこにあったらいいな、なんて夢のようなことを考えてしまいました。

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 さてDC-3 の後継車はS210型ダットサン・スポーツ1000で昭和32年に発表された4人乗りのオープンカーです、シャシはダットサンセダン211型から流用したラダーフレームで4輪リーフリジットに4輪ドラムブレーキ、エンジンはトラックやセダンと同じC型OHV988 cc にツーバレルキャブレターを装着、34馬力を発生して最高速度は115 km/hと発表されています。

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 実はこれはDC-3の隣に展示してあったダットサンフェアレデー1200SPL212とは同じクルマなのです、そしてこれこそが初代フェアレディなのです。ただし当時の表記はフェアレデーでした。

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 S211はボディにFRPを使っていましたがSPL212はスチールに換わっています、シャシは同じですが、前輪はダブルウィッシュボンの独立懸架、エンジンはE型OHV1,189cc換装され、48馬力最高速度は132km/hとなっています。

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 SPLのLが示すとおりこのクルマは輸出用ですべて左ハンドルでしたが数台はそのまま国内でも販売されたようです。

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 恐らくMGなどの欧州製スポーツカーがモデルになったのでしょうが、それほど洗練されたものではなかったのでしょう、昭和35年37年までの生産台数は500台ほどに留まりました。

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 ちなみにフェアレディの名はミュージカル映画「マイ・フェア・レディ」から、当時の川又克二社長が命名したものといわれています。

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 このような国産クラシックカーは貴重な文化財、工業製品技術遺産ですから、国を挙げて末永く守っていってほしいものだと感じます。

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posted by 健太朗 at 16:50| 京都 ☁| Comment(0) | ニッサンの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする