2010年09月12日

カタログコレクションより・コンテッサ1300

 日野自動車が乗用車を造ったのはたった14年間だ、その間にヒノルノー、コンテッサ900、そしてコンテッサ1300と3車種の乗用車を販売、そのほかにもスプリント900というミケロッティ・デザインの美しいクーペを試作したり、デルコンテッサやコンテッサGTプロトなどレーシングカーをサーキットに送り込んでいる。


 さらにコンマースやブリスカなどの商業車も創っているのだから、おそらく日野自動車の車内では恐ろしく慌ただしくこれらのクルマたちが駆け抜けたことだろうと思う。
そしてその最後を飾るのがコンテッサ1300シリーズだ。

 

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 この、今見ても美しいボディデザインはコンピュータでクルマ造りをする現在のデザイナーにはまねの出来ないものではないだろうか(失礼)、特にリヤエンジン車にしかできないバランスを持ったクーペの美しさは、数ある国産車の中でもトップクラスだと私は思う。


 このセダンやクーペのデザインもミケロッティの手になるものだと云われているが、実際にはミケロッティのデザインをもとにヒノの社内で創られたものだ。
 余談になるが、ノッチバッククーペなのに前輪駆動車の特長を生かしたホンダ1300クーペもまた私としてはもっとも美しいクーペに中に入れたいと思う。

 

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 さて、コンテッサ1300だが、ヒノルノー以来の4気筒エンジンをリヤオーバーハングに縦置きした伝統のレイアウトは、比較的軽いボディのおかげか軽快な走りを楽しめるクルマだった、しかし900のをそのまま大きくしたサスペンションはちょっと癖の強い操縦性をもたらしてしまったようだが、それこそがルノー以来伝統の乗り味なのだ。
 私の記憶では、リヤエンジン車というよりヒノのクルマ独特の、あの、後ろから圧されるような軽快感はその頃の(オーソドックスなといわれた)コロナやダットサンでは味わえないものであった、その代わり新米メカニックとしてはちょっと苦労する場面もあった。

 

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 リヤエンジン車はその冷却に工夫が必要だった、スバルはR2やサンバーで、ラジエターをフロントに置いて長いパイプやホースでエンジンとつないでいたが、ヒノはルノーからエンジンの近くにラジエターを置いていた、ただし、ルノーと900ではエンジンの前に置いてボディサイドから空気を取り入れていたのに対し、1300では最後部にラジエターを置いて後ろから空気を取り入れ下にはき出す方法をとっていた、ちなみにマツダボンゴのリヤエンジン車は最後部のラジエターからはき出す方式だった。
 いずれもまだエアコンがクルマにつく前の話、どの方式が一番よかったのか、結論が出る前にリヤエンジン車自体が時代に合わなくなってしまった。

 

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 このカタログ、というよりパンフレットなのだが、昭和42年、第14回東京モーターショーの会場でもらったものだ、最後のページに「日野車のコマ」とあるが、今なら「ヒノのブース」とでもいうのだろうか。
 この年の東京モーターショーは、センチュリーが発売されて話題になり、ルーチェロータリークーペがマツダRX87として展示され、カロッツェリア・ギヤがデザインしたいすゞ117スポーツとフローリアン、トヨタ2000GT、コスモスポーツ等の美しいクルマが目立っていた、そしてホンダF-1はRA273、ニッサンR380、ダイハツP-5Xなど、賑やかなモーターショーであった、私なども一人で開通して間もない新幹線に乗って見に行ったものだ。
 一方商業者ブースでは、既にトヨタとの関係が深くなっていたのか、ブリスカが、トヨタブリスカ、として展示されていた。

 

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 この提携の裏にニッサンとプリンスのような政治的圧力があったとすれば、非常に残念で空恐ろしい気もする

 

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 結局コンテッサ1300は昭和39年に発売され、国際デザインコンクールで数々の賞を手にしたリヤエンジン車の傑作だったのだが、日本で賞を与えた人は少なくて、昭和42年に撤退するまでの3年間に5万5千台あまり生産されたに過ぎなかった。

 

 以下に昭和39年8月のパンフレットの写真を抜き出して追加します。(18/01/28)

 

 初期型のコンテッサ1300クーペの諸元は、全長4150、全幅1530、全高1340、ホイールベース2280、車両重量945、エンジンGR100型、筒上弁、水冷直列4気筒、SU気化器2連装、1251cc圧縮比9.0、65馬力、10.0kg/m、145km/h、前進4段後退1段オールシンクロメッシュ、ラック及びピニオン、フロントウィッシュボーン・ディスクブレーキ、リアスイングアクスル・リーディングトレーリング、5.60-13-4PR、抜粋です、その他手動ブレーキは機械式内部拡張後2輪制動、又スタビライザーは棒ばね式、となっています、時代を感じさせますね。

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posted by 健太朗 at 21:19| Comment(2) | TrackBack(0) | ヒノの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年08月23日

FFワンボックス、ヒノ・コンマース

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 恥ずかしながら、記憶というものは非常に曖昧なもので、ヒノ・コンマースについて少し書いてみたが、資料を探し出してみればいくつも間違っているところがあって、今回は非常に時間がかかってしまった。

 

 コンマースというクルマは、非常に遅くて大きいクルマだという印象があったが、現在のクルマに比べると思いのほか小さい。
 最新のライトエースバンくらいの大きさで、車両重量も同じくらいだ。


 だがこれをたった35馬力の900㏄エンジンで走らせるのだから大きく重く感じるはずだ、それで10人乗せて最高速度は90km/hというのはちょっと眉唾物だ。

  「父ちゃんのコンテッサ」で紹介した日野コンテンサのエンジン・ミッションをそのまま前に持ってきたのかと思っていたが、ちゃんと180度回転させてエンジンが前になるようにして前輪駆動を成立させていた、しかもコンテッサより先に発売されているというから話はややこしい、ここのところは深く追求しないでおく。

 

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 元祖ワンボックスワゴンでFFだからエンジンがどこにあるかというとダッシュボードの下、ちょうどコンソールボックスやヒーターがあるところだ、大きな荷物をむりやり積んでいるような感じだ。

 全席が二人だから3列シートの更に後ろに横向きの2座があった、4メートル足らずのクルマに4列シートだから当然貨物のスペースはないし相当窮屈だったろう。
 11人乗りのミニバスもあって、当時は普通免許で乗ることができた。

 

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(この下にエンジンがある)

 

 

 

 

 私の自動車屋で整備をしたのは横も後ろも窓ガラスが着いた普通のライトバンだったが、ちょっと乗りにくくていいかげんにクラッチをつなぐとすぐエンスト、これはレリーズにベアリングではなくカーボンを使っていたせいもあるが、コンテッサも同じだからやはりボディの重さとエンジンが非力なためだったろうと思う。

 

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 だがあの頃こんなに大きな室内スペースを持ったクルマはなく、まるでバスに乗っているような気分が魅力的だった。
 前輪駆動と横置きリーフスプリングのサスペンションによって床が非常に低く、また内張なども簡素だから無駄のない広さだったのだ。

 

 軽自動車をのぞいて前輪駆動のワンボックス貨物車は国産車ではいすずの特殊車両に例があるのみで、現在でもライトエースやボンゴのようにライトバンはFRになっている、貨物が重いと前輪が浮き上がって十分なトラクションが得られないからであろう、外国ではシトロエンのH(アッシュ)トラックが有名だ。

 そしてホンダのステップワゴン以降、ワゴン車はFFを採用することが多くなっているが、どちらも純粋なワンボックスカーではない。

 

 先進的で夢のあるクルマだったが、昭和35年8月から37年10月までに2,350台が生産されただけで、日野自動車の発展に寄与することはなかった。

 唯一のFFワンボックスが忘れ去られてゆくのは残念でならない。

posted by 健太朗 at 23:31| Comment(0) | TrackBack(0) | ヒノの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年10月21日

父ちゃんのコンテッサ

Brog 


 表題の父ちゃんとは父親のことではない。
 私は高校時代、フォークソングのグループでリードボーカルをやったことがある。
 その頃の同級生で、このグループのリードギターのI君は、学園祭のステージ上から見つけた新入生の彼女と大恋愛の末、卒業後、出来ちゃった結婚をしてしまった。
 その息子が彼を父ちゃんと呼ぶものだから私もいつの頃からか彼を父ちゃんと呼ぶようになった。

 その父ちゃんが彼女と恋愛中に乗っていたのが1963年式のコンテッサ900であった。
もとは私の自動車屋の顧客が乗っていたもので父ちゃんが乗ったときには既に8万キロ近く走っていたものだった。

 現在はトラックやバスのメーカーである日野自動車がその昔、ルノー4CVをノックダウンで生産し、後に国産化したヒノルノーの後継車として発売したクルマで、リヤエンジンリヤドライブという今日ではポルシェ以外殆ど見られないレイアウトであった。
 4気筒900cc
をリヤオーバーハングに後ろ向きに置き、その前にミッション、デフ(トランスアクスル)を置いた、ちょうど縦置きFFを前後逆さまにしたと言えばよく解るだろう。

 リヤエンジンの魅力はオーバーステアの軽快さも捨てがたいが、なんといっても騒音が後に逃げるため静かだと言うこと、それに室内の床を平らに出来ると言うことだ。
 事実コンテッサも当時先進的なモノコックボディーと相まって、ゴミをほうきで掃き出せるほど真っ平らの床だった。その平らな床から生えるペダルはちっちゃくて、今の若者の大きな靴ではとても踏みづらいのではないかと思うくらいだ。

  そしてこのリヤエンジン車というものは雪が降ったときはまったく困ったもので、ボンネット上の雪がまったく溶けない。ふつうはボンネットの下にあるエンジンの熱でボンネット上の雪は次第に解け、ついでにフロントガラスも溶かしてくれるものだが、コンテッサの場合はフロント部に熱源が全くない。頼りないヒーターが十分効くようになるまで暖機運転をしないと、走り出したらボンネットもフロントガラスも凍り付いてしまうのである。

 そんな冬のある日、ハンドルが重いといって私の店に、まだ父ちゃんでないI君が現れた。早速試運転してみると重いというより渋い感じ、しかも戻らない。コンテッサのハンドルはパワステなどないこの時代でも十分軽く、ラックピニオンのギヤボックスに内蔵されたスプリングによってするするとセンターに戻るはずなのだ。
 早速ジャッキアップ、タイヤをつかんで左右に切ってみる、重い、全く動かない、力を込めて回してみるとギギッと音がして少し動いた。


 キングピンが錆び付いていたのだ。

 キングピンなどというものをトラックならいざ知らず、今の乗用車しか知らない若者に説明をするのは難しい。とにかく省略して言えば、タイヤが方向を変えるときにその支点となる部分だ。
 この時代の乗用車のほとんどが、グリスアップといって、サスペンションの可動部分にはグリスガンという道具で給油するようになっていた、だがコンテッサにはこれがない。


 従って分解してキングピンとブッシュを交換するのが本来なのだが、当時の若者は、否当時の私たちは喫茶店に行ってホットミルク一杯を3人ですすり、数時間も粘るほど時間はあっても小遣いに不自由していた、ちなみにホットミルク一杯40円だった。


 そんな状態だから分解も交換も出来るはずがない。今のように高性能なケミカル製品もない時代のこと、キングピンの隙間からエンジンオイルを差し入れては右へぐるぐる左へぐるぐる、二人交代でハンドルを回し続けること約2時間、ようやくコンテッサの軽快なステアリングが蘇ったのである。
 今なら大騒ぎでリコールと言うことになるのは間違いない話である。

 彼はそのコンテッサに何年乗ったのだろうか、やがてタイヤはすり減り、ブレーキは重くて効かなくなり、ハンドルも例によって重くなった、何より彼を困らせたのはエンジンである。オイル上がりが激しくなって2サイクルエンジンのようにもくもくと煙を吐きながら走る姿はいささか哀れでもあった。
 勿論エンジンオイルはすぐになくなってしまうから補給しなければならないのだが。普通の適量を入れたのでは駄目、普通というのはオイルレベルゲージで計って十分な量という意味だ、前述の通りオイル上がりが激しいのだから暖機するまでにプラグがかぶってしまう、だからエンジンが壊れない程度の最低限を適量とするのだ。

 更に彼を困らせたのは、こんなに神経を使って努力して走らせているコンテッサ君が、彼女に嫌われてしまったのだ。それはそうだろう、白い煙を吐いてバスバスと不調音をあげる黒い小さな車でドライブなどとしゃれている場合ではない、峠の途中で止まってしまったら百年の恋も冷めるというもんだ。しかしたぶんそんな頃に彼女がご懐妊になったのだと記憶している。男と女とはそういうものだ。
 その息子も今やプロのアーティストである。
 それで仕方なく父ちゃんもがんばって次にスバル360への乗り換えを決めたのだった。

 さて、お役ご免となったコンテッサは、八幡のポンコツ街道まで葬送行進曲、国道一号線をもくもくと煙を吐きながらだ。私はその後ろから新しいスバル360で随走していた。

 突然コンテッサのマフラーからあの忌まわしい白い煙が消えた。それと同時に猛然とダッシュ、エンジンオイルがなくなったのだ。
 私は慌ててスバルのバターナイフ(アクセルペダル)をぺたんと踏み込んだ。ついて行けない。スバルのスピードメーターは優に80Km/hを超えている。


 あのコンテッサがこんなに走るなんて、おそらく最初で最後だろう。
 ポンコツ街道の国道に一番近い店に飛び込んだ、その瞬間、エンジンが止まった。ご臨終である。


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 それでもその店からスクラップ代千円を頂戴した、そして帰りの国道沿いの食堂で父ちゃんは私に昼食を振る舞ってくれた。
 千円を支払った。
 そのときのメニュウを今は思い出せもしない。


posted by 健太朗 at 21:06| Comment(4) | TrackBack(0) | ヒノの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする