2011年06月08日

しなやかなベレル

 ベレルというクルマは実にしなやかなクルマで、って何がしなやかかというとそれは乗り心地である。


 ベレルが発売になるまでのいすゞの乗用車といえばヒルマンだ、イギリスのヒルマンではない、誰もこんな言い方はしなかったが、「 いすゞ・ヒルマン・ミンクス」だ。

 誰でもご存じだろうが、イギリスルーツ社のヒルマンミンクスをノックダウンから完全国産化したクルマなのだ、当然それはイギリスのヒルマンとほぼ同じものだった、イギリスのクルマは日本と違って、馬車交通がすでに発達した上に自動車が取って代わった形になっている、だから馬車道と呼ばれる、煉瓦で舗装した道が多く、つまり小さな凹凸が連続する道路を走るためには柔らかめのスプリングと収縮側を柔らかくしたダンパーで小さな突き上げを吸収する、というタイプになっていた。

 当時の日本の道路の舗装はコンクリートが使われていたが、まだ舗装率は低く、砂利道や悪路が多かったため、イギリス車のしなやかなサスペンションは適していたといえる、例えば日産は同じイギリスのオースチン社と提携して、オースチンA40サマーセットやA50ケンブリッジをノックダウンしたし独自路線を貫いたトヨタでさえ、2代目コロナではカンチレバーというしなやかに乗り心地のサスペンションを採用している。

  そしてルノーと提携した日野は4CVのサスペンションのひ弱さに苦労した。

 ヒルマンに乗用車の作り方を学んだいすゞが、独自のクルマを作ろうとして、当然それはヒルマンによく似たクルマになって当たり前というもの、あのフレキシブルなエンジンと実にしなやかなサスペンションは新型車ベレルにも受け継がれたのだ。だが私が大好きだったのはしなやかな乗り心地とともにヨーロッパ調のボディデザイン、特に当時のランチャに似たフロントフェイスだった。
 ベレルが発表されたのは昭和36年だったからその頃のクラウンは初代RSであり、プリンスグロリアはスカイラインと同型のテールフインにクロームメッキのモールがきらきらした、和製小型アメリカ車のようだったからベレルの三角形のテールランプとすっきりしたヨーロッパ風のラインは実に新鮮に見えたものだった。

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 このヘタな写真は北陸の日本自動車博物館で撮ったものだが、私の記憶ではこのボディカラーはオリジナルである、そしてリヤにはジュビリーのエンブレムが見える、ジュビリーはヒルマンミンクスのグレード名の一つ、いすゞはベレルにもこのグレード名を採用しているのだ。
 ちなみにベレルとは50の鈴という意味の造語だ、いすゞを漢字で書くと五十鈴となる、これは伊勢神宮の境内に流れる五十鈴川からとったものだそうだ、そしてべレットは言わずと知れた小さいベレルだ、もう五十鈴からどうしても離れられないネーミングだ。

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 ところがこのベレルというクルマ、あまり売れなかったという、販売網が弱かったとか、初期のクレームが多かったとか、いろいろな説があるが、私はベレルにディーゼルエンジンを載せたことが良くなかったのではないかと思う、当時ベレルの1500,2000,そして2000ディーゼルとも乗る機会があったが、静かでなめらかな1500・2000とは似ても似つかぬ2000ディーゼルの大音量とすさまじい振動にはびっくりしたものだった。
 五十鈴は戦前から造っているトラックの堅牢なことには自信があって、そのトラックの技術をベレルにも生かしたかった、当時タクシーの需要が多かったためで、エルフの堅牢なエンジンをベレルに移植したのだ。

 我々がクルマを買うときに、試乗して、我が家のガレージに入れてみて、なんてことをするのは最近のことで、まだ自動車が普及していなかった頃、クルマは高価なもので、試乗の機会があることの方が少なく、いわばカタログ販売みたいなものだった、レンタカーも少なく高価だったり会員制だったりで普及していなかった、でもタクシーなら後部座席に試乗することは簡単だ、で、乗ってみるとこのうるささ、さてさてやっぱりクラウンかセドリックにしようかということになったのではないかと、これはあくまで私の想像である。


 事実、旧型であるはずのヒルマンミンクスの方が人気があったようで、ベレルが発売されてから2年以上併売されていたという。

posted by 健太朗 at 22:20| Comment(4) | TrackBack(0) | いすゞの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2010年06月26日

カタログコレクションより・ベレットGT

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 いすゞの乗用車と云えばヒルマンを思い浮かべるのだが、べレルやベレット、それに117クーペなど美しくすばらしい車たちがあった事を思い出して欲しいものだ。
 今回は私のほんの少しのカタログコレクションの中から、ベレット・スポーツクーペグループを選んでみた。

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           1600GT

 ベレットは昭和38年、ヒルマンの後継車として売り出された1300・1500㏄4ドアセダンで寸法から見るとラウムより短く、全幅は今の軽自動車よりほんの2Cmほど広いだけの小さな車だが当時は結構大きく感じたもので、当時のコロナやブルーバードともほぼ同じ大きさだった。

 そして翌る昭和39年、東京モーターショーに展示されたプロトタイプがベレット1600GTとして発売された。

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        1500GT

 このカタログは発売当初のもので、1500GTや1500クーペもラインにある。
 エンジンはヒルマンのものを流用、GTにはSUツインキャブを採用しているがヒルマン同様かなりフレキシブルなエンジンだ。

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 サスペションはフロントダブルウィッシュボーン、リヤは横置きリーフのスイングアームで、ステアリングギヤに当時はまだ珍しかったラックピニオンを採用していた。
 この組み合わせは今では考えられないくらいユニークなもので、事実べレGの操縦性は 「ひとくせある」 と表現される事が多かった、私の記憶ではかなりのオーバーステアでそのくせロールが大きく後ろが流れるという印象だ。
 またこのラックピニオンのブッシュが弱く、フロントタイヤの動きに合わせてガタゴトと異音が聞こえるというのがベレットというくるまの思い出についてくる。

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   ハンドルが歪んで見えるのは写真のせいではない、ギヤボックスが中央寄りになっているのだ。

 なんだか最近のクーペモデルは美しいという形容が出来ないくらい機能的なデザインになっている、まさにコンピューターの申し子になってしまっているような気がする。
 この時代は人間の感性でデザインされていたのだろうか、ハード面での制約が今より多かっただろうから今より難しかったと想像するのだが、それにしてもこのベレットGTやホンダ1300クーペなど美しいクーペがたくさんあったと思う。だからといってこのデザインを現代によみがえらせようとしてもとても想像だに出来ないが、私はクーペという言葉に「美しい」とか「華麗」「流麗」というイメージがくっついているのだが、このベレットクーペと例えば今のニッサンGT-Rと比べてどうだろうか。

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       1500クーペ

 ベレットGTはその後、マイナーチェンジを繰り返しツインカムエンジンの1600GT-Rや1800GT、さらにはあまり美しくないファーストバッククーペなどを次々と発売した。


 そして鈴鹿12時間耐久レースでの優勝をはじめとして数々の戦績を残し、昭和46年の東京モーターショーにスポーツワゴンを展示、これを最後に、日本のGTグランツーリスモの草分けとしてスポーツカーシーンの座を117クーペに譲っていった。

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 このカタログの一文に「〈無理〉、こんな言葉は知りません。」と題してこうある、
  「ベレットGTのシートにかけてみてください。ギヤシフトレバー、ステアリング、さまざまなスイッチノブ‥‥全く無理を感じさせないポジションに配置されています。視覚をもたないパノラミックウインドウはドライブに疲労を覚えさせません。 メーターパネルはシャープで、スピードメーター、タコメーターはステアリングホイールの中央に並び、オイルメーターはじめ計器、スイッチ類はコンソールにデザインされております。ベレットスポーツクーペ・グループの運転席に是非一度おかけください。」。

 当時のスポーツカーはやっぱり 「心情的スポーツカー」 だったのだろうか、最後のページには 「とばしてください。きっと満足していただけます。ディスクブレーキも用意しました。」。

 名神高速が日本で初めて栗東・西宮間で開通し、マイカーブームが始まった、しかしまだ自動車という機械が充分成熟していなかった、ややこしい時代の美しいクーペだった。

posted by 健太朗 at 23:27| Comment(0) | TrackBack(0) | いすゞの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2007年09月25日

所長さんのヒルマン

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  まだ運転免許も取れない15歳の頃の話。
近くのガソリンスタンドでアルバイトをしていた。
学校を終えてすぐ市電に飛び乗り、閉店する午後8時頃までの約3〜4時間の勤務である。
 時間給は60円、数ヶ月後にはガンバリを認められて10円アップしてもらった。

 ガンバリと言ってもまだ自動車そのものが少ない当時のスタンドはお客は少なく、私としては特に頑張ったつもりはなかった。
それでも時々は日曜日も出勤して、一年間で約3万円の貯金をし、それでてんとう虫を買った。このスバル360の話は別の項に譲る。

 その頃のガソリンスタンドでは、2サイクル用のガソリンを売っていた。
 これは混合油と言って、レギュラーガソリンに2サイクル用エンジンオイルを混ぜたもので、後世のハイオクとレギュラーを混ぜた混合ガソリンとは違う。

 現在の2サイクルエンジンはガソリンとエンジンオイルを別々のタンクから供給するが、当時のそれはガソリンの中に潤滑油を混ぜ込んでいたのだ。
 ポンプスタンドの側面には10対1から30対1までのダイヤルが付いていて、たとえばスバル360なら25対1とか、三菱360なら20対1だとかいうふうに調節して給油するのである。

 今でもそう思っている人は多いが、当時からハイオクタンガソリンは上等のガソリンだと思っている人が多く、圧縮比8くらいの普通のセダンにハイオクを入れる人がけっこういた。それがスタンドの儲けだったのだ。そうでなければあのころハイオク仕様のエンジンなど、高級スポーツカーくらいのものでハイオクがそんなに売れるはずもなかったのだ。

 儲けと言えばスタンドマンにも余剰利益というか、役得のようなものがあった。
閉店後、各ポンプの電源を切る。そしてホースに溜まっているガソリンを抜き取るのだ。
抜き取ること自体は必須作業で、安全のためなのだが、従業員の自家用車に入れてしまうのは良いことだったのか悪いことだったのか今でも解らない。だがこれが十数リッターにもなるから馬鹿にしたものではない。
 所長さんのヒルマンミンクスが食う通勤用の燃料にしても余ってくる。だから他の従業員にも廻ってくるのだ。
 まだ運転免許さえ持っていない私も、無免許でこっそり乗るバイクを家に隠し持っていたので、この2サイクル用ガソリンをもらって帰ったものだ。

        

          

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 その所長さんの自家用車の話だ。これは、1959年(昭和34年)製ヒルマンミンクス、英国ではジュビリー(Jubilly:喜び)と呼ばれたヒルマン誕生50周年記念モデルモデルである。

 そもヒルマンミンクスというクルマはイスズが英国のルーツ社からノックダウンで組み立てたクルマであることは誰でもご存じだと思うが、昭和31年から32年にかけて完全国産化された。
 その後頻繁にマイナーチェンジし、価格も103万から66万まで値下げされた昭和39年まで7万台あまりが生産された。

 1500cc55馬力のデラックスと50馬力のスタンダードの2グレードがあったが、所長さんの黒いミンクスはスタンダードの方で、フロントグリルやドアモールなどのメッキ部分が少なかった。また15インチホイールに付くメッキのホイールキャップも半カバーであった。

   室内は広くふんわりした乗り心地がこのクルマの特徴で法定6人乗りのビニール張りのベンチシートは十分にゆったりしていた。
しかしこのクルマの寸法を見ると、今のカローラより遙かに小さいクルマであった。だがタクシーは中型の料金だったし、実際、当時としては大きな高級車であった。ちなみに1500ccが3ナンバーだった時代もあったのだ。

 ある時私は所長さんが所用で出かけた隙にこのクルマを走らせてみようと思い立った。まだ運転免許を持っていなかった15才の私は、とは云っても自動車大好き少年の私のこと、運転技術には既に熟達していたから、こっそりキーを盗み出して近場をドライブするのにさほど勇気を必要としなかった。

 遠心力を利用してピニオンギヤが飛び出すタイプのセルモーターを廻すと瞬時にエンジンが始動して暫くセルモーターが空回りする。当時のイギリス系のエンジンは(ダットサンなどもそうだ)皆このタイプだった。
  ロングストロークのOHVエンジンは、ごく低速でことこととアイドリングする。重いクラッチを踏んで4速ミッションをセカンドにシフトする。ステアリングコラムの右側にあるシフトレバーを押して下だ。平坦な道路で発進するのにローギヤは必要ない。それほどの低速エンジンなのだ。セカンド発進してもただクラッチを放すだけで何のストレスもなくスムーズに発進して、そのまま60キロぐらいまで加速する実にフレキシブルなエンジンである。

 だがこれが当時の常識なのだ。

 私はそのまま川沿いの道を行き、大通りに出てふわりふわりとドライブした。大きなハンドルに大きなホーンリング、グニャグニャのシフトレバー、トップギヤで20キロから加速するなめらかなエンジン、それに右に寄った小さなペダルを操作して優雅にドライブするのは、クルマ大好き少年にとっては夢のような世界だったのだ。何か陶酔に似た感覚に酔っていつまでも走っていたいようだった。

 突然前方の信号が赤に変わった。突然変わったのではない、気が付くのが遅かっただけだ。とっさにブレーキを踏む、しかし、効かない。思いっきり踏んずけてもなかなか停まらない。交差点の真ん中まで行って漸く停まった。
 故障ではない。私はヒルマンのブレーキがこれほど貧弱なブレーキだとは知らなかったのだ。私は交差点の真ん中に停まって前と後ろを左右に走るクルマ達をきょろきょろしながら眺めていた。

 しかし不幸はこれで終わらなかった。どうやら急ブレーキを踏んだ際、クラッチを踏み忘れていたらしい、エンジンが止まっていたのだ。そしてセルモーターも壊れていた。勿論原因など当時の私に解るはずはない。

 こうなると頼りになるのはクランクハンドルだ。クランクハンドルなどと言う言葉はもう今は死語になっているが、当時の普通の乗用車には必ずトランクに一本入っていたものだ。
私はトランクからこれを出してフロントバンパーの真ん中にある穴から差し込み、満身の力を込めてエンジンを廻した。
 かからない。いくら頑張ってもかからない。

 気が付くと後ろに警官が立っていた。それはそうだろう、いくらまだクルマが少ない時代だとは云っても交差点の真ん中に車を止めてくランクハンドルを回している子供がいるのだから警官が見たら放っておけないだろう。
 しかしその警官は意外にも私にクランクハンドルの回し方を教えてくれたのである。

  「ええか、こう廻して重たなったところで一旦止めて、ここでうんと力を入れる。そうや、それでええのんや」

 この日から私はクランクハンドルの天才になった。
 それで私はその警官に無免許を咎められることもなく、スタンドに帰って所長さんに咎められることもなく仕事を続けた次第である。だってその夜、所長さんは何事もなかったようにクランクハンドルをひとまわしして、「おつかれー」て、帰って行かれたのだから。

 いやぁ、そう言う時代だったのでしょうか。ね!
 今なら大変なことになってたでしょうね。

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posted by 健太朗 at 23:29| Comment(6) | TrackBack(0) | いすゞの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする