2016年10月01日

機械遺産 その7

 7月25日、一般社団法人・日本機械学会からスバル360が機械遺産に認定されたと言うニュースが入ってきました。

 そこで歴代の機械遺産、中でも自動車関連についてちょっと調べてみようと思います。

 今回は平成19年認定のホンダCVCCエンジンです。


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 昭和40年代、高度成長期になると「公害」という言葉がマスコミを賑やかすようになってきました。

 工場から出る煤煙もそうですが、まず自動車の排気ガスがやり玉に挙がりました、このことは日本だけではなく、特にアメリカでは厳しい規制がかけられて、昭和45年になると「まず達成出来ない」と言われるほど厳しい規制が1970年大気浄化法改正法として上院議会に提案されました、マスキー法です。

 自動車が排出する有害物質と言われるものは主に、一酸化炭素(CO)、炭化水素(HC)、窒素酸化物(NOx)があります。

 これらを1975~6年までに1970年のレベルより1/10以下にすると言うもので、出来なければ期限以降の販売を認めないというのです。

 もちろん日本車もアメリカで販売する以上無視することは出来ません。

 でもこれは実は日本よりアメリカ国内で強い反発があり実際にマスキー法が成立するのは1974年(昭和49年)で、当初の目標値は実質ないがしろにされました。

 しかしこの厳しい規制をいち早く達成したのが日本のメーカー、ホンダのCVCCであり、ロータリーエンジンでは、マツダのサーマルリアクターなのです。

 さて、CVCC(シーブイシーシー、Compound Vortex Controlled Combustion)は、昭和47年、ホンダが発表した低公害エンジンで、複合渦流調整燃焼方式と言います。


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 CVCCがCIVIC(シビック)とつづりが似ているところから、後からこじつけたなどという人もいます、しかしこれがあの厳しいマスキー法を世界で初めてクリアしたのですから、誰がなんと言おうとホンダの技術の勝利なのです。

 ガソリンの理論空燃比は14.7と言われています、つまりガソリン1gに対して空気が14.7gの混合気で燃やすと一番よく燃える、と言うことなのです、自動車の場合、アクセルペダルの踏み加減(スロットルの開度)によって変わりますが、出来るだけ空気を多く(混合気を薄く)して燃焼させる方が総体的に排気ガスに含まれる有害ガスは少なくなります。

 そこで、エンジンの燃焼室に送り込む混合気を出来るだけ薄くします、ところが余り薄くするとプラグで着火できません、それでも着火さえ出来ればエンジンはそれなりの性能で作動します、それなら着火できるだけの大きな炎を作ってやれば良いのです。


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 そこでホンダは小さな副燃焼室をもうけました、そこにプラグで着火できる混合気を送り込んで着火し、その火炎から主燃焼室の薄い混合気にも着火すると言う構造になっています。

 ただそのためには、キャブレターや吸入マニホールドに副燃焼室用のポートが、またシリンダヘッドに吸入バルブが必要となるなど、いろいろな工夫を施さなければなりませんので製造会社としては決して儲けが見込めるエンジンではなかったようです。


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 副燃焼室のヒントはディーゼルエンジンにありました、ディーゼルに使う軽油は着火性は良いのですが引火性は良くありません、ガソリンのように爆発しにくいのです、それには副燃焼室のような構造は有効です、予燃焼室式や過流室式と言うエンジンがあります。

 しかしCVCCエンジンの評価は高く、米国自動車技術者協会は20世紀優秀技術車に選んでいますし、社団法人自動車技術会はマスキー法を後処理(エアポンプや触媒等)なしでクリアできる最初のエンジン、としています。

 機械遺産は日本の排出ガス低減技術を世界のトップに引上げた歴史的な機械、として認定されました。

 そしてシビックに始まって2代プレリュードまで、1980年代までのホンダ製の自動車のほとんどにCVCCが搭載されました

 

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posted by 健太朗 at 22:29| Comment(3) | TrackBack(0) | くるまの雑談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月19日

機械遺産 その6

 先月25日、一般社団法人・日本機械学会からスバル360が機械遺産に認定されたと言うニュースが入ってきました。

 そこで歴代の機械遺産、中でも自動車関連についてちょっと調べてみようと思います。

 今回は平成20年認定の円太郎バスです。


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 大正12年、東京市内は関東大震災で大きく被災しました、東京市電気局は当時東京市内の主たる交通手段であった路面電車の代わりにフォードT型トラックシャシを緊急且つ大量に輸入(1,000台と言われていますが実際には800台ほどだそうです)、このシャシに木製の客室をのせてバスを急ごしらえで、11人乗り市バスとして走らせたのが円太郎バスです。

 大正13年1月18日、中渋谷-東京駅前と巣鴨-東京駅前の2路線が最初に開業して、その後次第に拡大しました。

 円太郎の由来は、明治時代の落語家、四代目橘家円太郎です。

 明治初期に東京市内を走っていた乗合馬車の御者が吹いていたラッパを、芸に取り入れて演じていたのが、ラッパの円太郎、と受けていました、それが逆に乗合馬車の方を、円太郎馬車、と呼ぶようになり、そこからある新聞記者が、円太郎バスと名付けたといわれています。

 円太郎バスの小さい車体は震災で荒れた街中を走るにはちょうど良かったと言うこともあり、東京市民の貴重な交通機関となりました。

 そしてこれが全国に路線バスを走らせるきっかけになったと言うことです。


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            (T型フォード・ツアラー)


 円太郎バスはベースがT型フォードですから、私たちが知っている常識的な自動車とは、その運転方法はずいぶん違っていたようです、日本でも大正時代、T型フォード専用免許があったそうですが、まず運転席に座るとステアリングコラムに2本のレバーと床には3つのペダル、さらに左床からハンドブレーキレバーが屹立しています。

 あれ、これなら私たちが乗っているクルマと同じやないの、と思うかもしれませんがそれぞれの役目がまったく違うのです。


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 停車中、ハンドブレーキレバーを引いておけばクラッチも連動して切れていますのでこの状態でエンジンを始動します、ステアリングコラム右のスロットルレバーと左の点火時期調整レバーを少しずつ下げてチョークを引き、前に廻ってクランクハンドルを回します。

 次にハンドブレーキを戻す前に左ペダルを半分踏んでクラッチが切れた状態を保っておき、ハンドブレーキを解除します、スロットルと点火時期レバーを更に下げつつ、左側ペダルを一杯に踏み込むと、ローギアに入ってクラッチが繋がり発進します。

 ある程度加速したら、左側ペダルを離してやると自動的にハイギアに切り替わりますからスロットルと点火時期をレバーで速度調整するのです。

 減速は右側ペダルを踏むとセンターブレーキが作動します、そして左側ペダルを踏み込んでローギアに入れてエンジンブレーキが効かせます。

 減速したら左側ペダルを半分の位置に戻してクラッチを切ります、停止はハンドブレーキの操作でします。

 バックする時は、前進と同じ要領で中央ペダルを踏むとバックし、ハンドブレーキで停まる、ということです。

 まあこんな文章ではわかりにくいと思いますが、右側ペダルはプロペラシャフトに働くセンターブレーキ、ハンドブレーキは左右後輪のドラムブレーキですが駐車用ではなく、センターブレーキの補助の役目もあるわけです、また、ヘンリー・フォードは遊星歯車にこだわったようです、ですからクラッチはミッションとプロペラシャフトの間にありましたので、実はこれでもチェンジレバーのない、いわばイージードライブだったのです。

 さて現在、東京都交通局に非公開で保管されている円太郎バスは、現存する唯一の円太郎バスであり、現存する国内最古のバスでもあるのです。

 平成19年までは東京都墨田区の交通博物館で保存・展示されていたのですが交通博物館は閉鎖になってしまいました。

 その前は東京市バスとして引退後、肢体不自由児施設・柏学園に払い下げられ送迎バスとして活躍していたそうです。

 

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posted by 健太朗 at 20:26| Comment(2) | TrackBack(0) | くるまの雑談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年09月11日

機械遺産 その5

 7月25日、一般社団法人・日本機械学会からスバル360が機械遺産に認定されたと言うニュースが入ってきました。

 そこで歴代の機械遺産、中でも自動車関連についてちょっと調べてみようと思います。

 今回はアロー号と同じ平成21年認定のロコモビルです。

 

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 明治35年、ロサンゼルスで世界初の映画館が開業し、キャデラックが創業しました。しかし日本では戦艦三笠が竣工され、八甲田雪中行軍遭難事件が起きています、    こんな時代に自動車に乗れる人はごくごく限られた人だったことでしょう。

 この年の4月、アメリカからロコモビル社の蒸気自動車が8台輸入されました、これは市販用としては日本で最初の自動車の登場と言うことになります。

 ロコモビルはスタンレー兄弟が設計したスタンレー1号車の製造権を買って造られた蒸気自動車で明治32年(1899)から4年間で5200台造られた当時のベストセラーで、300本もの管を組み合わせたボイラーと2気筒のエンジン、それに軽量ボディで高性能且つ廉価なクルマだったそうです。

 横浜船渠(きょ)社長であった川田龍吉男爵がこのうちの1台を2,500円で購入してわが国ではじめて自家用車を通勤用に個人所有した、つまりオーナードライバーとなった人物とだったと言われています。

 その後、函館船渠の社長となった川田龍吉男爵は北海道にこのロコモビルを持ち込み、函館市内のご自宅から男爵イモの農場がある七飯との間の往来に使用したといわれています。

 ところが明治41年頃、故障して動かなくなり、そのまま農場の倉庫に置きっ放しされていました。

 時代は下って昭和53年札幌局のディレクター、伊丹政太郎氏がこのクルマを発見、東京工業大学、一色尚次教授に依頼され昭和55年、稼動状態にまで復元整備されました。

 ボイラーは現在の規格に合わせて新たに造られましたが、それ以外は当時の部材をそのまま用いられたと言うことです。

 

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 現在は函館の男爵資料館に修復資料や復元時取り外した機器とあわせて展示されているそうです。

posted by 健太朗 at 21:00| Comment(2) | TrackBack(0) | くるまの雑談 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする