2019年09月25日

ミスター・ダットサン

 最近、ニッサンが元気がないので、フェアレディZのことをいろいろ考えていたら、古~い自動車雑誌の記事にこんなのがありました。

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 それは“ミスター・ダットサン”とか“ミスター・K”などと呼ばれた、特にアメリカで有名な、そして米国自動車殿堂入りを果たした日本人の話です。

 ミスター・ダットサンとは片山豊という方で、明治42年生れで平成27年105歳で天寿を完うされました。

 昭和10年日産自動車に入社、ダットソンからダットサンに換わった頃です。

 設計を担当することを希望していたのですが、宣伝部に配属されます、そこで水之江滝子や轟夕起子など戦前のそうそうたる大物女優を起用してダットサンを小型車の代名詞的存在に押し上げます。

 戦後、日産は戦前型のダットサンでいち早く市場に復活しますが、貧乏どさくさの時代、大企業でもフトコロは火の車。

 そんな時代に片山さんは自動車会社には象徴的なクルマが必要、それはスポーツカーだと思いついて、昭和27年、ダットサンスポーツDC-3を誕生させます。

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SPL212とDC-3

 昭和29年には全日本自動車ショウ(現在の東京モーターショー)初開催に協力、ギリシャ神話の青年が車輪を持つ姿のシンボルマークは片山さんの考案によるものだそうです。

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 鉄板をハンマーで叩いたり溶接して車体を作る時代から、プレスでボディを作る時代になり昭和30年ダットサン110がデビューし、プレスの他、組み立て、塗装、艤装を1ラインで生産する近代工法が注目されました。

 さらに32年には210に進化しました、戦前からのサイドバルブエンジンからOHV998cc34馬力と高性能になったダットサンを片山はラリーに出場させます、オーストラリア一周モービルトライアルです、スポーツカーの虫が甦ったそうです。

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ダットサン210

 出場67台の中、2台の210が出場し見事に完走し、富士号と名付けられた1台はAクラスで優勝、ダットサンの名は一躍世界に知られることになりました。

 ここで片山さんは日本での闘いは終えて、昭和35年、単身アメリカに渡ります。

 ロサンゼルスを中心に、ディーラーに飛び込みでダットサンを売り歩きます、しかし日産本社には反対勢力があって、ニューヨークに拠点を置くよう圧力をかけてきますが、片山さんの方が北米の自動車事情に詳しいため反対勢力は敗退、片山さんは晴れて米国日産の初代社長となり、日本人の細やかなサービスと日本車の機能性、特性で、日産車のアメリカでの地位を作りました。

 アメリカで悪戦苦闘しながら米国日産自動車を設立、210ダットサンからブルーバードに発展する過程で、またまたスポーツカーの虫が目を覚まします。

 日産本社を口説いて、210ベースのダットサンスポーツSPL212を誕生させ、それがやがて310ベースの1500、2000と発展します。

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ダットサン・スポーツ1500

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ダットサン・スポーツ1600

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ダットサン・スポーツ2000

 そして片山さんにとって集大成となるのがダットサン240Zです、それを50万台も売ってしまってその結果、アメリカのZカーファンたちはファザーオブZカー、ミスター・ダットサン、と呼び慕うこととなったのです。

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 アメリカの人たちはダットサンZの生みの親として平成10年、その功績をたたえて自動車殿堂入りで答えました。

 片山豊さんはアメリカを去るとき、当時の秘書にアメリカでの愛車240Z・70年型をプレゼントしたそうで、この記事の時点ではまだ現役だったそうです。

 その後、日産はダットサンの銘ブランドを捨ててしまいました、そして日産フェアレディZは今や消滅の危機を迎えています。

 ダットサンが産れてから消えるまでダットサンに尽くした片山豊さん、ミスターK、「ミスターダットサン」と呼ぶに相応しい片山豊さんは平成時代の終わりにふるさとの浜松市春野で天命を完うされました。

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フェアレディZ






posted by 健太朗 at 22:57| 京都 ☀| Comment(0) | ニッサンの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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