2017年06月21日

スーパーカー.・トヨタ2000GT

  以前、トヨタ1600GTの話をしましたが、それならトヨタ2000GTの話もしましょうと思いましたが、残念ながら私は2000GTには乗ったことも整備にたずさわったこともありません、でもあの当時の2000GTの人気ぶりはよく覚えています。


カタログより09.JPG


2000GTは昭和42年に発売されましたがこの当時、私たちの世代はまだ二輪車に興味があった時代ですので、オートバイの三大メーカーの内、スズキは既に四輪部門を持ってるし、ホンダが四輪スポーツカーに進出したのにヤマハはどうなの、なんて話題で盛り上がったりしていましたら、なんと後に国産車で唯一のスーパーカーと呼ばれるようになるトヨタの高級スポーツカー、トヨタ2000GTのエンジンを手がけた、と言うことで大いに感心したものでした。


カタログより07.JPG


それはボディをトヨタが造り、エンジンはトヨタM型をベースにヤマハがチューンアップする、というものでしたが。

ヤマハがニッサンと協力して開発していたスポーツカー計画にトヨタが乗っかってベースエンジンとしてM型を提供しただけで、開発丸投げでトヨタのバッジを付けたのだ、といううわさが流れました。


カタログより06.JPG


これらの噂はちょっとと違って、実はトヨタ・ヤマハの共同開発だったと言うことはずいぶん後になって、40年代後半のスーパーカーが流行ったころに知ったのです。


カタログより01.JPG


実際には、ヤマハのスポーツカー計画にニッサンの力を借りようとしたところ、ニッサン側の都合でうまくいかなかった、というところにトヨタがエンジンのチューンアップを注文して来たと言うことから、共同開発の話になったのですが、その時すでにトヨタの方でシャシの設計が出来ていました、ですからこれをベースにトヨタの技術者がヤマハに出向するかたちで開発が進んでいきました、だから当然のようにヤマハの工場で委託生産と言うことになった、とまぁそんなところが事実のようです。


カタログより02.JPG

ですからヤマハのエンジン技術の他にも楽器の木工技術もウッドパネルなどの生かされているそうです、ここから28ヶ月という短い期間で発売になった。というのも納得できる話しです。


これも歴史の裏側とみれば面白いお話ですね。


12thモーターショー02.jpg


ところで、私たちが初めてトヨタ2000GTを見たのは昭和40年、東京モーターショーを特集した自動車雑誌の記事でした。

この年は高度成長期のまっただ中にありながら少し不況の影が見え隠れした年ですが、プレジデントが発売されコロナが飛ぶように売れた頃で、一方モータースポーツが身近なり始めてスカイラインGTR380、ヒノプロトタイプ、ホンダF1もショーを賑わしていました。


その中で、トヨタ2000GTはショーモデルとみられて、前述の雑誌には「最高速250km/hはあながち誇張ではなさそう」とか「我が国で使われるには大きすぎる」とかの記述があります。

でも大きさは全長4160mm1600mmですから今なら私のアクアより少し小さいくらいでしょう、幅が広いだけの3ナンバーが流行る時代から見れば決して大きくはないですね。


でもこの時点でほぼ出来上がっていたのですから凄いものですね。


12thモーターショー01.jpg
ボンドカー.jpg


そして次の年は世田谷で樹立された世界記録、国際記録を報じていますが、オープンタイプが007のボンドカーになったこともあって「近くこのまま発売されるでしょう」としています。

でも実際に生産車として発売されたのは約半年後の昭和425月です。




カタログより03.JPG


最近、トヨタ 2000GT 50周年ということで、開発の高木英匡さんと津々見友彦さんの対談の記事を読みました。

そこで高木さんは「ヤマハの川上源一社長からトヨタ側に「なにかいっしょにやりませんか?」という打診がありました。それで、ちょうどいいタイミングだということで共同で開発することになったんです。」といっています。

また、「エンジンも含めた車両全体の開発作業の流れは、まずトヨタがコンセプトを固めて、設計を主導。ヤマハはそれを受けて各部分を開発し、トヨタが承認するという流れでした。実際にヤマハとの契約がスタートしたのは12月ごろで、設計が完了したのは翌年4月ぐらいでしたかね。それで1号車が完成したのは8月です。」早いですよね。

「普通のクルマの開発に比べてかなり早い。集中的に作業できたのがよかったんでしょう。エンジン、シャシー、ボディの3グループに分かれて進めていたんですけど、どれも実際の作業はヤマハ側のほうがずっと多かったので、毎週1回はヤマハに泊まり込んで作業してましたよ。」


そして「好奇心と夢と情熱、、トヨタに長く勤めたなかで、大切な仕事のひとつです。いまでもこうやって、多くの人に興味を持っていただけるというのは誇りに思いますよ。」

津々見さんは「こんなに美しいカタチ、美しい音に包まれながらサーキットを走れるなんて、至極の時間でした。開発者の英智やセンスが、いかに素晴らしいものだったかがわかります。携われたというのはラッキーだったし、幸せです。」と仰っています。


カタログより04.JPG
カタログより05.JPG

posted by 健太朗 at 22:29| 京都 ☁| Comment(2) | TrackBack(0) | トヨタの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
健太朗さん
この車私の近所に2000番のナンバープレートを付けた個体があります。幸運にも間近で拝見した事が幾度かあります。
この近所の2000GTの最初のオーナーは俳優の谷隼人さんで、谷さんが手放されたを現在の方が購入されました。
私の知る話では2000GT開発は当時のトヨタに第七技術課というのがあって、主にレース活動を行う部門でした。式場壮吉さんや故・浮谷東次郎さん、細谷四方洋さん、故・杉江博愛さん(後の徳大寺さん)や福沢幸雄さん等のレーサーが所属していました。課長は河野さんという方で取りまとめていやっしゃいました。この部門でレースに勝つ為の世界に通用する車を開発するというコンセプトで2000gtが開発スタートされたのだと伺いました。課長の河野さんは開発の参考にトヨタからJaguar Eを貸与されヤマハとの打ち合わせに通っていたようです。河野さんはJaguar Eに感銘を受けていたようで、2000GTのボディーラインが似ているのはその為です。
2000GTの開発過程で細谷さんが協力されています。彼は契約レーサーではなくトヨタの所属であった為、極秘の開発に携わる事ができたのだと思います。
この第七技術課は後のトヨタ7を輩出しますが、後にトヨタ7ターボは福沢さんの悲劇に繋がる訳ですね。
私の知る範疇の記憶ですから世間の情報とは乖離や記憶違いもあるかも知れませんが、もう一つのエピソードとしてご参考までに。
Posted by スギモト at 2017年06月24日 10:07
健太朗です。
スギモトさん貴重な情報、有り難うございます。

私も福澤幸雄とトヨタ7の事故は少し記憶があります、恋人とされた小川知子がTV番組で「初恋の人」を歌唱中の泣き出した映像が頭のどこかに残っていますし、それと相前後して同じ番組でいしだあゆみが「サチオ君」を歌って涙を流したことも印象に残っています。       当時はプロの歌い手が歌唱中に泣くなど、まだ珍しいことでしたので、そして私もまだ青春時代の同年代でしたので、なおさら印象深いのでしょう。
 その後、スパイダースが記念アルバムを出したり、小説や映画になったりと言うことがありました。
 福澤幸雄はハーフで非常に整った顔立ちのモデルとしてもレーサーとしても人気があったし、福澤諭吉の子孫との話題もあり将来が楽しみな人でした。
 今では本当かどうか、事故後トヨタが機密保持のために事故車を隠したために警察の事故処理が出来なかったとか、福澤本人は乗るのを嫌がっていたとかのうわさ話を聞きました。
 対談の高木さんはエンジン担当にエンジニアで、津々見さんはニッサンのワークスドライバーだったときに2000GTに一目惚れしてトヨタに移籍した人です。
 それにしても一度でいいから2000GTのハンドルを握ってみたいものですね。
Posted by 健太朗 at 2017年06月24日 21:38
コメントを書く
コチラをクリックしてください

この記事へのトラックバック