三菱自動車は日本で最も古い自動車メーカーです。
その設立は1870年といいますから明治3年、150年以上も前になります、もちろんその時から自動車を作っていたわけではありません。
最初は、海運会社九十九(ツクモ)商会、という船の会社でした、その後、三菱造船となり神戸造船所でフィアット3型を模した三菱A型乗用車という自動車が作られました、大正7年のことです。
三菱造船はやがて三菱重工業になって、昭和25年過度経済力集中排除法つまりダグラス・マッカーサーによる財閥解体により東日本重工業、中日本重工業、西日本重工業3社に分割されて、のちに三菱日本重工、新三菱重工業になりました。
その間にカイザー・フレーザーのヘンリーJをノックダウン、またジープをノックダウンしました、こちらはやがて国産化されて三菱ジープとなってパジェロに進化します。
そして昭和39年分割された3社が合併し三菱重工業、昭和45年には自動車部門が独立して三菱自動車工業となります。
これより前、昭和34年には以前からオート三輪トラック「みずしま」を作っていた三菱グループで岡山県の水島製作所が「ペット・レオ」という軽3輪トラックを開発し、これを「三菱レオ」として発売しました。
この水島製作所は昭和40年代には、三菱ミニカや三菱360などを開発して、三菱自動車の開発・生産拠点となります。
一方、名古屋自動車製作所と京都製作所を中心とした開発グループは三菱500、コルト600そしてコルト1000と開発を進めて行きます。
コルトファーストバックは水島製作所で開発されたモデルであり、ミニカでの経験によって800ccの2サイクルエンジンを搭載していました。
ですから、誠に異例のことですがコルト600や1000などとファーストバックのコルト800とはおなじ三菱ブランドですが全く違うクルマであり、そも開発者も生産者も違っていたということだそうです。
三菱重工としてはこのような二重投資を反省して、自動車部門独立に先立ち、車両開発体制の整理を余儀なくされたのです。
さて、話題のコルト800とは、全くオーソドックスな3ボックスセダンのコルト1000とは違って特徴的なファーストバックですが昭和40年に発売された当初はテールゲートがなくてノッチバックのようなトランクルームでした、しかし42年には3ドアのハッチバックが登場し43年には4ドアが出ましたがこれにもハッチバックはありませんでした、今のように2ボックスイコールハッチバックではなかった時代のことです。
コルト800のエンジンは2サイクル水冷直列3気筒843cc、45馬力、トルクが8.4kgmもの高出力エンジンで120°等間隔点火と4サイクル6気筒以上の滑らかで、性能は良かったのですが燃費が悪く、また音と白い排気煙が軽自動車みたいだと評判を落としたのです。
私の自動車屋で納車したクルマのお客様からもまさにこのような表現で苦情を聞かされたものです。
しかし駆動方式では、500や600のようなリヤエンジンではなく、前ダブルウイッシュボーン・横置きリーフと後リジットリーフのオーソドックスなFRの足回りは滑らかでまずまずでしたが、まだこの時代の足回りは車検の度に分解やパーツ交換の必要があって、ふつうのサスペンションだからよい、という評価は得られませんでした。
そこで前述の車両開発体制の整理が出来た証のように出来上がったのがコルト800のファーストバックボディにコルト1000のエンジンを積んだコルト1000Fだったのです、つまり水島自動車製作所のボディと京都製作所のエンジンが合体して、これによって現在に続く三菱自動車工業が出来上がったというわけです。
昭和41年に発売されたコルト1000Fは4サイクル直列4気筒OHV997cc 55PS/6000rpmトルク7.5kgM/3800rpmで最高速度は135km/hと、パワーアップされましたが、これとてライバル達に一矢報いることはできず、1100ccと更にパワーアップされて11Fとなりましたが、昭和43年にはコルトギャランへとモデルチェンジされました。
コルトファーストバックは実は日本で初めてのファーストバックであり、800はフロンテ800と並んで日本の乗用車では数少ない3気筒、2サイクルエンジンを積んだきわめてユニークなクルマでした、数年前、確かトヨタの試作で過給機や燃料噴射などを使った2サイクルエンジンがありました。
2サイクルエンジンは魅力的なエンジンですので、こういう個性的なクルマやエンジンが再び開発されるといいなと思います、イタリアのFIAT500は2気筒エンジンを復活させたのですから。