2012年09月30日

我らがクーペ

 クーペ、という言葉のひびきが私は大好きだ、何となくエレガントでゆらゆらと流れるようなイメージがある。
 日本のクルマでこのクーペという名を使った例は少くない、スカイラインクーペ、アコードクーペ、古いところではいすゞ117クーペ、フロンテクーペなどがある。
 クーペは元は馬車用語で、客室を途中で切ったような2人乗りのエレガントな馬車だ、自動車ではおおよその定義しかないが、だいたいハードトップを持った2座または4座のオシャレなクルマを言う。

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 戦前にはダットサンクーペがあったが、近代日本で初めてクーペの名を冠したのが我らがマツダR360クーペだ。
 まだ自動車が高嶺の花だった昭和35年、スバル360よりずっと安い30万円という価格で売り出された、後のコスモスポーツにも通じるスマートなデザインのクルマだ。
 小杉次郎さんという東洋工業のデザイナーはオート3輪から一貫した、つきだしたバンパー辺りからヘッドライト辺りの凹ませたデザインを「うれしいかたち」と称していたという。

 軽量化を優先して2+2に割り切ったパッケージは最小限の室内で、とくに後席は子供用で、大人一人が腰をかがめて足をすぼめて何とか乗っていられる程度の広さだった、そのうえ内張は荷室にスポンジの座布団がおいてあるという程度で今ならとても+2座とはいえないシロモノだ、
 しかしたった30万円、といっても大卒の初任給が1万数千円の頃のこと、それでも高価なものではあったが、マイカーブームの火付け役にもなった庶民の、我らがクーペ、である。
 文字通り大ヒットして、昭和35年から44年までの9年間に6万5千台あまりを売って歴史に残るクルマとなった。

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                             河口湖の博物館にあるクーペ 

 私がちょうど最初のスバル360に乗っていた頃、兄が中古の62年スタンダードを7万円で買ってきた。「おまえのぼろスバルと違ごうて、これは一日中乗ってても壊れへんぞ」などと言われたものである。


 エンジンはK360と同じ空冷Vツイン356㏄16馬力を後に積んだRRだ、シリンダやヘッドにアルミ合金やマグネシウム合金まで使っていたという豪華な仕様、ドライサンプ式でオイルでも冷却するというまるでミニポルシェのような仕様だ、だからスピードは出ないがけっこう力強く耐久性も抜群だった。

 ある夏の日曜日、兄が男兄弟3人でクーペに乗って琵琶湖の水泳場へ行こうと行ってきた、そんな事は私たち兄弟の半生、いや言い出した次兄はもうこの世の人ではないので私たちの一生で最初で最後のことである、私は喜び勇んであの狭くて暑い後席に潜り込んだ。

 ゆらゆらふわふわとした乗り心地とてくてくぱたぱたというエンジン音に酔いながら旧国道1号線を行く、たしかにあのスバル360と違って逢坂山の坂も、シンクロメッシュ4速のトップギヤで難なく登っていった、そして彼方に琵琶湖の水がきらりと光る辺り踏切をガタゴトと越えたとき、なんだか急にクッションが悪くなってきた、ごつごつとおしりに感じるのだ。

 R360のサスペンションは前後ともトレーリングアームのピボットに大きなゴムのかたまりをはめ込んでこれをねじる、トーションラバースプリングを使っていた、ゴムのクッションを使ったクルマにはあのオースチンミニがあるが、あちらはゴムを垂直に圧縮してその反発を利用している、それに比べればはるかにゆったりとした乗り心地だ。

 浜大津を前にして3人が車を降りてみるとクーペはまるでレーシングカーのごとくぺたんと腰を下ろしていた、後のラバースプリングがぶち切れたのだ、トレーリングアームはストッパーのゴムに当たってミニのと同じようにストッパーを圧縮してわずかに路面からの衝撃に耐えていた。不思議なことに後がこうなると前も同じようにぺしゃんこになる、後の世のシャコタンと同じ状態だ。


 さあどうしようと兄弟3人が額を寄せて相談する。
 私はこれでもメカニックだから、このまま走るのは危ないという意見を出した。
 が、長兄の出した結論は、「まあええがな」、だった。
 3人はどすんどすんという衝撃をもろともせず、浜大津近くの水泳場で一日中はしゃいで夕方になって京都の家に帰ったのでした。

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             加賀の博物館にあるクーペ

 後日、修理は高く付くので中古部品を使ってスプリングを交換、兄はこのクルマを知り合いに安く?売りつけてしまった、ところがしばらくすると今度は前輪が同じようにへたり込んでしまったという噂を聞いた。

posted by 健太朗 at 22:46| Comment(4) | TrackBack(0) | マツダの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
私の職場に20歳ほども年上の初老の技術者が入社してこられた。(四十余年前の話です)
太平洋戦争末期のニュース映画で銃を担いで雨の中を行進する学徒動員の場面に写っているのは同級生とのことで、そんな世代のひとでした。
歴とした学歴と優秀な頭脳の科学者でしたが人生の大事な時期を戦争と結核で台無しにして必ずしも裕福とはいえないくらしぶりでした。
独学でテレビ修理を勉強し黎明期のテレビ修理で多少の余裕が出来自動車を買ったそうです。
やっと本題です。
なんとマツダクーペです(だったそうです)
この時代ユーティリティーで選べば絶対にスバルだと思うのですが(クーペには当時のテレビを積むのは大変そう)
私が興味を持って聞いたらスタイリングが気に入ってチョイスしたそうです。
時代にてらして見るとずいぶん贅沢な車ですよね。
私はこのおじさんがなんだか好きになりました。
晩年、免許を返上した後もクーペは路地の突き当たりに置き去りにされたまま朽ちかけていました。


私にとってのクーペはサニークーペが印象的ですがジャンル的にはファーストバックでしょうか?

雑談でご勘弁を
Posted by なめネジ at 2012年10月17日 00:15
健太朗です。
なめネジさん、すてきな雑談ありがとうございます。

 私がクーペに乗ってふわふわ遊んでいた頃、その頃の私と同じくらいの年頃の学生が戦争にかり出されたのは、私が生まれるほんの数年前のことだったんですよね。
戦争を体験したひとはホントに強い、と私は感じます。
なめネジさんが好きになったそのおじさんも戦後を強く生きてこられたのでしょうね、そしてクーペを大事に大事に乗ってられたのでしょうね。
なんだか父を思い出してしまいました。私の父はラバウルというところに転戦して苦労させられたそうです、父はマイカーが普及する前のひとですからオートバイを大事にしていたのを思い出します。
でも父のあのオートバイ、ヤマグチオートペットはのちに私が乗って、ばらしたり改造したり、壊れるまで楽しませていただきました。
Posted by 健太朗 at 2012年10月17日 23:23
お父様はオートバイ乗りで山口オートペットを乗っていらしたのですね。
つい最近、山口自転車の女社長 山口シズエさんがなくなったとニュースで知りました。
社会党から自民党に鞍替えした議員さんとしても有名な方です。
オートペットは私も高校生の時所有していました。
友達の家で不調なので乗らなくなったのを譲り受けたのです。
あるときいたずら心でヘッドをバラシてシリンダーを見たら排気ポートがカーボンで塞がって3分の1ぐらいになっていました。
ゴリゴリとカーボンを取ると見違えるほどに元気になり紫煙を噴きながら走り回ったものです。
2.8PS程度ですから多寡が知れていますけど実用上は充分でした。
混合ガソリン 1L 55円だったと思います。
独特のカラーリング(灰色と黄土色を混ぜたような色)を懐かしく思い出します。
山口はもう1台所有しましたが・・・ ア!

オートバイの事を書き始めると止らない・・・です。
Posted by なめネジ at 2012年12月19日 18:11
健太朗です。
無理に止めなくても…。
止まらないほどの話というのは実に楽しくて懐かしいですね。
なめネジさん、ありがとうございます。

そうなんですね、当時の2サイクルエンジンはカーボンがたまるのが欠点でした、シリンダーやマニホールド、お話の吸排気ポート、それからマフラーまで、不思議なことにキャブレターにもヤニのようなカーボンが付いていました。これは吹き返しがあるからでのちにハーモニカのようなリードバルブが発明されてかなり良くなりました。
ヤマグチオートペットの時代はとくに原始的な2サイクルエンジンだったのでホントに懐かしいお話です。

ガソリンの55円という数字も懐かしいですね、普通ガソリンが50円、ハイオクタンと混合が55円でしたか、こんな時代にもハイオクは上等のガソリンだと思って、ハイオクの混合入れてる、なんていう変なおじさんがいました、おいおい、と思いましたね。
ガソリンが50円を超えたとき、高くなったもんだと思いました、ラーメン一杯50円から70円くらいでしたから。

blogのどこかに書いたかもしれませんが、オートペットのエンジンが焼き付いたとき、ひまし油をプラグ穴から入れて息を吹き返したという話も思い出しました。

いやいややっぱり止まりませんね、今日はこの辺で。
Posted by 健太朗 at 2012年12月19日 21:22
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