私は杉田二郎さんによって、戦争を知らない子供たち、と歌われたまさにその世代である。
父親の戦争体験を聞かされたり、同級生に戦争孤児がいたり、傷痍軍人と言われる人たちが道ばたに座っていたり、まだ私たちの子供時代には生々しい戦争の残り香が漂っていた。
とはいえ、今思えば京都の商家に育った私は、そんなことに頓着せず、のほほんと育ったのだろうと思う、だから初めて原爆ドームの前に立った時の衝撃はかなり大きかった。
衝撃と言えば、沖縄旅行であの広大な基地を目の当たりにしたときもそうだった。
昭和20年の敗戦後、アメリカによって占領された沖縄は、昭和47年5月にやっと返還されたが、それから40年近くたっても未だに米軍基地に悩まされているという事には、日本国民の一人として申し訳ない思いがないわけではない。
戦前の沖縄県の道路は左側通行であったが、昭和20年6月から米国の法律で右側通行となっていた、そしてようやく左側通行に戻されたのは昭和53年7月30日のことだった。
33年ものあいだには日本の高度成長があり、沖縄にもすっかりクルマが増えてしまっていた、ひと晩、全県の交通を遮断して道路標識などを交換したとはいえ、かなりの混乱があっただろう事は想像に難くない。
ちょうどそんな頃に中古車として私の自動車屋に入ってきたのが、まだ沖縄ナンバーを付けたままのトヨタS800、略してヨタ8、だった。
この左ハンドルの希少な国産車は729車両と呼ばれた。
左側通行の道路交通法施行に対応したクルマを730車両というのに対してそれ以前の車両をこう呼ぶのだそうだ。
トヨタS800というのは、当時の大衆車パブリカの車台と空冷水平対向2気筒800㏄エンジンを利用した2座タルガトップロードスターである。
あの先進的なアルミダイカスト製ツインカム4キャブレターのホンダS800とは対照的とも言えるエンジンだが、それでも0-400m発進加速18.4秒と155km/hの最高速度という性能を誇っていた。
もちろんホンダには及ばないが、徹底した空力対策のこれまたホンダとは対照的な未来志向のボディから絞り出された性能で、乗って楽しいのはホンダに勝るとも劣らないものであった。
そこに左ハンドルというおもしろい要素が加わったこの沖縄仕様のヨタ8,これはすぐに売れると思ったのだが、それは甘い考えだった。
シルバーメタリックの美しい外観とは裏腹に、沖縄で酷使されたエンジンはすでに元気なく、オイルタペットはかたかたと大きな音を立て、サスペンションや車台はかなりの腐食が見られた。
その頃まだ沖縄に旅行するにはパスポートが必要で、1ドル360円の時代だ、私ももちろん彼の地を踏んだことはなかった、こんなクルマは珊瑚で固められた海岸の道を潮をかぶりながら走っていたのだろう、などとロマンチックな悪口を言ったものだ。
極めつけはスカットル部に刻印された車体番号が、腐食の為に読めなくなっていたのだ。
雪国のトラックならともかく、乗用車の車体番号は高いところにあるので腐食の為に読めなくなるなんて聞いたことがない。
実はこれを直す為には車体番号を打ち直さなければならないのだ、つまり新しい番号を刻印するのだ。これは陸運事務所でお役人に打ってもらうと言うことになる、沖縄ナンバーを生かそうと思えば車ごと沖縄の陸運事務所へ行かなければならないことになる。
またそこまでしなければ、左ハンドルの国産車を本土で新規登録、つまり京都ナンバーで登録することは出来なかった。
かくして沖縄から来たヨタ8は一台の自動車として生きる事は出来なかったのだ。
これも戦争の残り香の一つだったのかもしれない。