2008年01月08日

利休色のコロナ

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                                           (コロナ1500)

 幼なじみのてんとう虫とお別れしてからしばらく、私は二輪にうつつを抜かしていた。かみなり族と言われたが、後の世の暴走族のような悪さはしていない。少しばかりうるさいと思われた方にはお詫びをしたい。

 普通免許を取ってすぐ、1963年式のコロナ1500デラックスを買った。4年落ちの中古車で14万7千円、月給3万円くらいのときのことである。利休色というのはちょっと黒ずんだ薄いグリーンのメタリックである。本当は何とかグリーンというような名前があったのだろうが、呉服屋の多い京都ではそう呼ばれた。

 RT20という型式はコロナとして2代目で、コロナという名に市民権を与えたクルマであった。

  初代のコロナ(ST10)は、1957年当時クラウンのタクシー仕様としてのマスターというクルマ、その主要部品を使って初乗り運賃60円の小型タクシー用に作られ、だるまと呼ばれた。

                     St10

 サイドバルブの4気筒1000㏄S型と言うエンジンを乗せたクルマだった、それは当時人気があったダットサン(110)に対抗するための急ごしらえのクルマで、魅力的ではあったが商品としては短命に終わりわずか3年でモデルチェンジを余儀なくされた。京都でも京聯タクシーが使っていたが、モデルチェンジ後は、驚くほど素早く新型に変わっていったことが印象に残っている。

 1960年、モデルチェンジされたニューコロナPT20はカンティレバーというリヤサスペンションを採用した妙にふわふわとした乗り心地のクルマだったが、62年には1200㏄から1500㏄のRT20へと進化し、サスペンションは普通のリジットリーフになった。この辺りからコロナとブルーバードの販売合戦はますます熾烈になってゆくのである。いわゆるBC戦争である。

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(19歳の私と愛車 丹後半島の海岸近く、グリルやホイールを黒く塗るのが流行っていた。)

 私がこのコロナを手にいれた、BC戦争もマークⅡ 、ローレルに移行してゆく直前の昭和42年(1967)は、ビートルズが日本にやってきた翌年、ツイッギー、長髪、公害、アングラ、ゴーゴー、フォークソング、ブルーシャトーに帰ってきた酔っぱらい。そんな年であった。私もご多分に漏れず、フォークソングのバンドを結成、何処へでもギターを持って出かける生活をしていた。

 まだ20歳にも満たないギター少年が、ちょっと古いがいっちょまえの乗用車を乗り回していられたのも、自動車屋の仕事をしていたからで、と言うのは当時自動車を維持する上での経費の中に修理代が大きな割合を占めていたからだ。例えば車検整備費用が現在と同じくらい、と云えば分かるだろうか。
 やっと自賠責保険が義務づけされ、ガソリンだって40円前後の頃のことなのだ。それでも少年のポケットにはいつも僅かな小銭しか入っていなかった。ついでに言わせてもらうなら、この少年はクルマを乗り回していると言うだけで大いにもてたものだった。

 だから小遣いの殆どがクルマの維持費に消えたとしても悔いのない青春時代を送ることが出来たというわけである。
 
 さて、このコロナのトランクルームは今のように小さいスペァタイヤが床下に隠してあるのではなく、床下はガソリンタンクが占領していて、その上に560−13という大きなタイヤがあぐらをかいていた。
 その上大きな工具箱は常時携帯の必要があったから、ハードケースのギターを2本もつっこめばいっぱいであった。
 ガソリンタンクの給油口はナンバーの裏にあり、わざわざトランクを開けてレバーを押し、ナンバーを下に倒してゴム製のキャップを開けるのである、もちろんトランクオープナーなどない時代、エンジンキーとは別のキーでトランクを開けるのであった。


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 当時にタイムスリップして乗ってみることにする。
 ダイキャスト製のドアハンドルを握り、ボタンを押して重いドアを開ける。内装はすべてグリーンでまとめられている。外装色に併せてあるのだ。
しかし運転席に座ると朝顔型と呼ばれたステアリングハンドルは真っ白だ。そのハンドルの内側にホーンリングという大きなダイキャスト製クロームメッキのホーンスイッチがあって、もちろんこのリングのどこを押してもクラシックなダブルホーン(クラクションではない)が重厚な音を発する。
 そしてこれがフラッシャ(ウインカー)スイッチである。つまりこのホーンリングをハンドルと同じ方向へ回転させることによってフラッシャスイッチとなるものであった。独特のころころっと云う音を発してフラッシャが点滅する。


 前は大きなフロントグリルの端の大きなサイドランプと兼用になったライト、後ろはテールフィンの先端に赤く光るなみだ型のテールランプ兼ストップランプの下にこれも大きなバックランプと兼用のガラス製のランプが点滅するのである。
 ヘッドライトは新型のシールドビームが採用されて当時としてはたいそう明るかった。そのディマースイッチはクラッチペダル横の床の2センチくらいのボタンを踏むことによって切り替わるようになっていた。

 これは当時の国産車にはあたりまえのスイッチであったし、ホーンリングが回転するのはトヨタの乗用車はパブリカを除いてみなこの方式であった。


 ヘッドライトスイッチはダッシュボード(インストルメントパネル)中央にピアノの鍵盤を短くしたようなボタンがあって、押すとオン、下に押し下げるとボタンが戻ってオフである。

 しかし慣れないと押すときに下方向に押してしまい、なかなかオンにならないと言うようなことがあった。鍵盤はライターをはさんで左右に四つづつあって、右からヘッドライト、スモール、ワイパーハイ、ロー、ヒーターハイ・ロー、それにルームランプとフットランプである。ルームランプはセンターピラー左右に2つ付いていたし、フットランプはもちろん標準装備であった。

 シートは完全にフラットなベンチシートだからドライバーとパセンジャーの間にかなりのスペースが空くので、手荷物が置けるし、もう一人座ってもまだゆったりしていた。それでもこのクルマの全幅は1490㎜しかなかったのだ。現在とは車体の作りが違うのだろう。

 スピードメーターはドラム式、つまり数字の下を緑色の帯が伸びていくタイプだ。そして60キロを超えるとこれが赤色に変わるから見ていても楽しい。この頃は色が変わるメーターは他にもあった。例えばミゼットはメーターの針の照明が確か40キロで赤くなるようになっていたと記憶している。

 重いドアは決してたたきつける必要はなく、閉めようと思いさえすればかちっと閉まる。そのドアをかちっと閉めて、重いクラッチを静かに放すとそれだけでそろりと走り出す。
 時速20km/hも出るともうトップギヤの守備範囲である。

 乗り味はソフトだ。だが62年までのカンティレバーに比べるとかなりしっかりしていがこの柔らかい乗り味は現在のクルマでは味わえないものであろう。
 だがハンドルはソフトではない、重い。もちろんパワステなどない時代だ、だからこれでもスカイラインやオースチンに比べるとずいぶん軽い。

 次の交差点で停まって、トップギヤからローに入れ替える。
 突然チェンジレバーが動かなくなった。
 上にも下にも左右にも全くレバーがフリーズしている。
 しかし慌てる必要はない、「ギヤが咬んだ」だけなのだ。おもむろに前ヒンジのボンネットを引き上げてシフトリンケージをがちゃがちゃっとやってやればよい。
 つまり2・3速側がまだニュトラルの位置に戻るまえにロー・バック側が動いてしまってレバーはその中間に咬み込んでしまったというわけなのだ。これも当時のトヨタ車では日常茶飯事のトラブルであった。
ちなみにチェンジレバーは左手コラムシフト、手前に引いて下がロー、これが当時のスタンダードだ。

 発信加速はスムーズだ。クラッチペダルは重いが粘りのあるトルクを利用してその気になれば全くショックのない変速も可能だ。しかしお世辞にも鋭い加速だとはいえない、それは1トン以上もある車体をたった62馬力で走らせるのだ、そんなにすっ飛ばせるわけがない。とは言え、強い低速トルクのおかげで山道では力強い。そして丈夫なサスペンションのおかげで悪路にも強い。

 ある日、夜のドライブとしゃれ込んで東山ドライブウェイに登っての帰り道、カーブでセンターラインを超えてきた対向車をよけ損なって道路脇の溝に左前輪を落としてしまった。
 スバル360でも同じようなことをしてしまったが、そのときは通りすがりのおじさんによいしょと担いでもらったら苦もなく脱出できたが、コロナではそんなわけにはいかず、ハンドルを切ってごり押しで脱出した。

 そしてその数日後、伊丹空港まで名神高速を走った、何となくタイヤの音が大きく感じたので診てみると5分山くらいあったタイヤが見事にスリックタイヤになっていた。
 しかしそれでもダメージは少なく、サイドロッドを調整するだけでアライメントが回復した。

 私はこのコロナに約5万㎞ほど乗って手放すときには9万㎞に達していた。車検の祭に交換した部品はブレーキを始めサスペンションからエンジンに至るまで多岐にわたった。
 前述のように、このころの車検時の整備費用は今よりも高かったくらいで、サスをすべて分解するなど驚きもしなかったのである。しかしその4年ほどの間にほとんど路上故障等のトラブルはなかった。

 だから私は丈夫なクルマだと思っていたが、今、資料をめくってみると、ブルーバードに比べて車体が弱いとうわさされ、販売台数ではブルーバードに遙か及ばなかったという。




posted by 健太朗 at 22:50| Comment(2) | TrackBack(0) | トヨタの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
あの頃は、ギター青年(?)だったね、仲間内で作詞作曲して学園祭などで演奏したな。いまおもえは照れるけど、こわいものなしで健太朗さんはボーカル兼サイドギターでぼくはリードギターってとこか(笑)あのころはやっぱ。せいしゅーん!だった。お金はなくても友達といれば幸せだった。そんな頃のコロナの思い出、よくドライブに連れってってくれたね。東山の夜景がきれいだった、相手が男で残念だったね。友人S君の実家がある橋立旅行はよく覚えているよ、その薄いグリーンのコロナに乗って真夏の丹後路往復400キロ。上品で静かで乗り心地のいいコロナでの快適なドライブまさに、美しいエレガントカーだった。確か宮津のロープウェイのある山へコロナで登った時、未舗装の道がわるく、ごつごつした石ころにクルマの底をこすりそうで、汗をかきかきステアリングを握っている謙太朗さんの横顔がわすれられないよ(笑)きっと、世間では若造にはもったいないクルマ、と思われてたよ。燃費はどれくらいだったけ?
Posted by とうちゃん at 2008年01月11日 13:18
とうちゃん、ギター王子と言ってくれる(照)。もしも私とS君がもっとギターが上手になってたら・・・、とうちゃんは焦れったかったことでしょう。 そう、あれは股のぞきの成相山に登ったときのこと、ガードレールもない砂地の石ころ道、途中でクルマを止めてもずるっと滑るような急坂でした。なんか恐ろしい思い出が今もこの小さな胸に残っています。今はあの道も舗装されてガードレールくらいは付いてるのでしょうね。 今ならロープウェーで登った方が楽しいでしょうけど。 コロナの燃費はもう記録は残ってませんが10�/�位だったと思います。とにかく乗り換えるたびに燃費が悪くなる印象です。新しいクルマは燃費が良くなったと宣伝しますが、道路や交通の条件が悪くなっていったのでしょうね。
Posted by 健太朗 at 2008年01月12日 15:04
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