2007年10月21日

父ちゃんのコンテッサ

Brog 


 表題の父ちゃんとは父親のことではない。
 私は高校時代、フォークソングのグループでリードボーカルをやったことがある。
 その頃の同級生で、このグループのリードギターのI君は、学園祭のステージ上から見つけた新入生の彼女と大恋愛の末、卒業後、出来ちゃった結婚をしてしまった。
 その息子が彼を父ちゃんと呼ぶものだから私もいつの頃からか彼を父ちゃんと呼ぶようになった。

 その父ちゃんが彼女と恋愛中に乗っていたのが1963年式のコンテッサ900であった。
もとは私の自動車屋の顧客が乗っていたもので父ちゃんが乗ったときには既に8万キロ近く走っていたものだった。

 現在はトラックやバスのメーカーである日野自動車がその昔、ルノー4CVをノックダウンで生産し、後に国産化したヒノルノーの後継車として発売したクルマで、リヤエンジンリヤドライブという今日ではポルシェ以外殆ど見られないレイアウトであった。
 4気筒900cc
をリヤオーバーハングに後ろ向きに置き、その前にミッション、デフ(トランスアクスル)を置いた、ちょうど縦置きFFを前後逆さまにしたと言えばよく解るだろう。

 リヤエンジンの魅力はオーバーステアの軽快さも捨てがたいが、なんといっても騒音が後に逃げるため静かだと言うこと、それに室内の床を平らに出来ると言うことだ。
 事実コンテッサも当時先進的なモノコックボディーと相まって、ゴミをほうきで掃き出せるほど真っ平らの床だった。その平らな床から生えるペダルはちっちゃくて、今の若者の大きな靴ではとても踏みづらいのではないかと思うくらいだ。

  そしてこのリヤエンジン車というものは雪が降ったときはまったく困ったもので、ボンネット上の雪がまったく溶けない。ふつうはボンネットの下にあるエンジンの熱でボンネット上の雪は次第に解け、ついでにフロントガラスも溶かしてくれるものだが、コンテッサの場合はフロント部に熱源が全くない。頼りないヒーターが十分効くようになるまで暖機運転をしないと、走り出したらボンネットもフロントガラスも凍り付いてしまうのである。

 そんな冬のある日、ハンドルが重いといって私の店に、まだ父ちゃんでないI君が現れた。早速試運転してみると重いというより渋い感じ、しかも戻らない。コンテッサのハンドルはパワステなどないこの時代でも十分軽く、ラックピニオンのギヤボックスに内蔵されたスプリングによってするするとセンターに戻るはずなのだ。
 早速ジャッキアップ、タイヤをつかんで左右に切ってみる、重い、全く動かない、力を込めて回してみるとギギッと音がして少し動いた。


 キングピンが錆び付いていたのだ。

 キングピンなどというものをトラックならいざ知らず、今の乗用車しか知らない若者に説明をするのは難しい。とにかく省略して言えば、タイヤが方向を変えるときにその支点となる部分だ。
 この時代の乗用車のほとんどが、グリスアップといって、サスペンションの可動部分にはグリスガンという道具で給油するようになっていた、だがコンテッサにはこれがない。


 従って分解してキングピンとブッシュを交換するのが本来なのだが、当時の若者は、否当時の私たちは喫茶店に行ってホットミルク一杯を3人ですすり、数時間も粘るほど時間はあっても小遣いに不自由していた、ちなみにホットミルク一杯40円だった。


 そんな状態だから分解も交換も出来るはずがない。今のように高性能なケミカル製品もない時代のこと、キングピンの隙間からエンジンオイルを差し入れては右へぐるぐる左へぐるぐる、二人交代でハンドルを回し続けること約2時間、ようやくコンテッサの軽快なステアリングが蘇ったのである。
 今なら大騒ぎでリコールと言うことになるのは間違いない話である。

 彼はそのコンテッサに何年乗ったのだろうか、やがてタイヤはすり減り、ブレーキは重くて効かなくなり、ハンドルも例によって重くなった、何より彼を困らせたのはエンジンである。オイル上がりが激しくなって2サイクルエンジンのようにもくもくと煙を吐きながら走る姿はいささか哀れでもあった。
 勿論エンジンオイルはすぐになくなってしまうから補給しなければならないのだが。普通の適量を入れたのでは駄目、普通というのはオイルレベルゲージで計って十分な量という意味だ、前述の通りオイル上がりが激しいのだから暖機するまでにプラグがかぶってしまう、だからエンジンが壊れない程度の最低限を適量とするのだ。

 更に彼を困らせたのは、こんなに神経を使って努力して走らせているコンテッサ君が、彼女に嫌われてしまったのだ。それはそうだろう、白い煙を吐いてバスバスと不調音をあげる黒い小さな車でドライブなどとしゃれている場合ではない、峠の途中で止まってしまったら百年の恋も冷めるというもんだ。しかしたぶんそんな頃に彼女がご懐妊になったのだと記憶している。男と女とはそういうものだ。
 その息子も今やプロのアーティストである。
 それで仕方なく父ちゃんもがんばって次にスバル360への乗り換えを決めたのだった。

 さて、お役ご免となったコンテッサは、八幡のポンコツ街道まで葬送行進曲、国道一号線をもくもくと煙を吐きながらだ。私はその後ろから新しいスバル360で随走していた。

 突然コンテッサのマフラーからあの忌まわしい白い煙が消えた。それと同時に猛然とダッシュ、エンジンオイルがなくなったのだ。
 私は慌ててスバルのバターナイフ(アクセルペダル)をぺたんと踏み込んだ。ついて行けない。スバルのスピードメーターは優に80Km/hを超えている。


 あのコンテッサがこんなに走るなんて、おそらく最初で最後だろう。
 ポンコツ街道の国道に一番近い店に飛び込んだ、その瞬間、エンジンが止まった。ご臨終である。


Con1_2

 それでもその店からスクラップ代千円を頂戴した、そして帰りの国道沿いの食堂で父ちゃんは私に昼食を振る舞ってくれた。
 千円を支払った。
 そのときのメニュウを今は思い出せもしない。


posted by 健太朗 at 21:06| Comment(4) | TrackBack(0) | ヒノの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
父ちゃんこと、Iクンです。なつかしいなあ、免許を取ってあの1963年式のコンテッサ900を買ったのはもう、40年ちかくも昔。少し訂正すると買ったときの走行距離は6万キロで6万円ぽっきりだったとおもう。それから約一年半乗って、10万キロを超えたことをおぼえているよ。その間ステアリングのキングピンの錆び付き、夜遅くまでかかって直してくれたね。ありがとう。故障はこれくらいで後はピストンリングが減ってしまってオイル上がりがひどくなったことかな、オーバーホールするにも金がなかったな(笑)とにかく、リアエンジンでほんとう静かでいい車だった。特に乗り心地が上品だった。ブログにあるように、八幡ポンコツ街道に売り飛ばしに行ったときは、オイルがなくなってエンジンは絶好調、最後にスペックどおりの性能を味わったよ。楽しい思い出だね。乗り換えた国産の名車スバル360も中古でリアエンジンだったけど、これは2年間、走り回って一回も故障はしなかったよ、ものすごい信頼性だね。(笑)いまでもあちこちが消耗している27000キロ走行のポンコツをメンテしてもらっているのは、おもしろい巡り合わせだね。物持ちがいいというか、物好きというか。いまでもリアエンジンのポルシェの古いのがほしい今日この頃の父ちゃんです。これからも、よろしく。
Posted by tiger at 2007年10月29日 14:12
父ちゃん、コメントありがとう。下手な文章で恥ずかしいけど、涙が出るほど懐かしい思い出を共有できる友達がいることが、ホント嬉しい。
Posted by 健太朗 at 2007年10月29日 22:34
昭和35年頃でしょうか
東京のタクシー 記憶では、日野ルノー初乗り60円、ダットサン70円、クラウン80円と記憶しています。
60円はともかく、70円、80円の料金体系はかなり長く続いたように思います。

ビートルに4ドアがあったらタクシーに採用されたのでしょうか?

夏場は日野はリアシートが暑いから避けるようにと物知り顔で父のガールフレンド。
父もガールフレンドもバツ1で不倫ではなかったのですが双方とも子沢山でいっしょになったら何人家族になったのか?(脱線)

その後コンテッサタクシーになって、友達に知ったかぶりで薀蓄を披露したりしてました。

それ以前、育った山間の村では路線バスはいすゞボンネット、この頃よりリアエンジンバスが
ボツボツ見られるようになりそちらは日野製、図体が大きく、いすゞを見慣れた目にはそのデザインがエキゾチクに映ったものでした。
つづら折の峠がメイン路線でロングホイールベースのリアエンジンは使いづらかったのでしょう。
台数は少なめでした。

雨の日は天蓋のあるバス車庫を遊び場にしてよく怒られたものです。

キーワード 日野 ひの ヒノ いずれも遠い昔の、おぼろげな記憶です。
Posted by なめネジ at 2011年02月24日 17:30
健太朗です。
なめネジさん、ありがとうございます。

私も子供の頃の60円タクシー、よく覚えています。
自動車大好き少年は、タクシーの中から見る景色が興味の対象でした、助手席から見るボンネットのカタチや、後席から見るダットサンの短いトランクやクラウンのテールフィンなど、ヒルマンのセンターメーターは後席からもよく見えました。
車種による揺れ方の違いにも興味がありました、ブルーバードやコロナは縦揺れ、ルノーやコンテッサは横揺れ、ヒルマンやオースチンはゆらゆら、更に、ダットサンやマスターはごつごつ、といったところです。

軽自動車のスズライトやスバル360を使った40円のタクシーも一時期ありましたね、左側ドアを開けて助手席シートを前に倒して客待ちをしているのをよく見かけました。
ビートルのタクシーは私は覚えがありませんが、何かの雑誌で使われたことがあるという記事を読んだことがあります。

京都には京聯タクシーというモスグリーンの初代コロナを使ったタクシーがありました。
ぎんれいというそれこそ銀色のタクシーもありました、今のようなきれいなメタリックではなく、クリヤーラッカーもない頃ですから粉を噴きそうな銀色でした。
バスなら、米軍払い下げのトレーラーを改造したトレーラバスや四条通りにはトロリーバスが走っていました、四条大宮でUターンをするときにポールが架線から外れて立ち往生していたのを見たことがあります。

昭和40年代初め頃、東京モーターショーを見に行ったときの記憶では、東京のタクシーはオレンジか黄色がほとんどでしたね。
鈴鹿サーキットの近くにはホンダ1300のタクシーが走っていました。

なんだか、とりとめもなく思い出せばキリがありませんね。
Posted by 健太朗 at 2011年02月25日 22:55
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