2007年10月07日

お兄ちゃんの軽トラ コニー360

3601 
  私の父は建築金物を商っていた。
その家業を長兄が次ぐことになってそろそろリヤカーでは間に合わなくなった。

 当時急速に普及し始めた軽トラックの種類は無数にあったと言っても過言ではない。
ホープスター、昌和、みかさ、三井、ニッケイ、くろがね、ジャイアントコニー、それに富士、ダイハツ、マツダ、スズキ、三菱、等々三輪も含めて枚挙にいとまがない。

 そこで家族会議を開いて、一番安価なクルマを選んだ。
ダイハツミゼットである。大村昆、佐々十郎のテレビコマーシャルで人気があったミゼットであるが、それでも当時ダイハツの販売店であった東商会へ電話をして見積りを取ったところ二十四万円という事であった。

まだ自動車ローンも、値引き合戦もない時代である。
昭和30年代後半の24万円という金額がいかに大きなものであったかというと、その数年後に就職した私の初任給が12,000円、京都市電の乗車賃が12円、銭湯も12円、タクシー60円、鉛筆5円、あめ玉1円、であるが、工業製品は高く、万年筆は1000円から、力道山やローハイドを見るための白黒テレビは20万近くもした。
ちなみにスバル360は45万円であった。
Cony4360 
 やっばりたかい。と言うので中古車を探すことになった。その経緯は省略するが、とにかく十万円のコニー360が手に入った。昭和35年式だと記憶しているが、初期型の、蟹目、のニックネームのあるAF3というタイプで、空冷4サイクル水平対抗2気筒359cc16馬力、がシートの下に搭載されているが、長いボンネットがあり、その下にはスペアタイヤとガソリンタンクが収まっていた。それで全長3メートルであるから荷台は大きいはずがない。
 当時、キャブオーバータイプの軽トラックは少なく、昭和34年に発売されたくろがねベビーが最初である。近年キャブオーバータイプにも衝撃防止のために短いボンネットを持つようになったが、昔帰りのような気がしてならない。

 さてその年の秋のことである。父がある大学校舎の煙突建ての仕事を請け負った。各教室のストーブに各々煙突を建てるのであるから大仕事である。当然中学生の私も手伝わされることになる。
 その手伝いのちょっとした休憩時間のこと、私はおそらく無邪気に運転席に座って遊んでいたのだろう、その私に父が、「いっぺん動かして見ろ」と言ったのである。

Cony3  
   もちろん私は既に運転の方法は熟知していた。ただ実体験がないだけであった。私は喜々としてキーをひねり、クラッチを踏み、チェンジレバーを操作してローに入れた。

 クルマが走り出して驚いたのは父であった。まさか中学生の子供がこんなに簡単に運転するとは思っていなかったのだろう、父が大慌てで走る姿がバックミラーに映っていた。

 これが私の初体験であったが、あの時のクラッチの重さ、レバーのグニャグニャした感触、走り出すとすっと軽くなるハンドルの感覚などは今も忘れない。もしかしたらこの体験が私の自動車大好き人生を決定したのかもしれない。

 あれから数十年、今運転することはあまり好きではない。なぜなら、道路は混雑し、目的地についても駐車場に不自由し、人々の運転はマナーに欠け、事故が多く、それに現在のクルマに個性がなく、夢もなく、操作、運転に楽しさがない。

 いったいクルマ社会はどうなってしまったのか、クルマってこんなに素晴らしい機械なのに。

 

 

posted by 健太朗 at 23:23| Comment(1) | TrackBack(0) | 軽トラの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
>あれから数十年、今運転することはあまり好きではない。なぜなら、道路は混雑し、>目的地についても駐車場に不自由し、人々の運転はマナーに欠け、事故が多く、それ>に現在のクルマに個性がなく、夢もなく、操作、運転に楽しさがない。そうそう、楽しい車は個性的な古いくるまだね。
Posted by tiger at 2007年10月29日 14:48
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