カタログコレクションから・フィアット2300

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 このカタログは昭和44年私の自動車屋でフィアット124スポルトクーペを販売した際、頂いたカタログで、私の記憶が正しければ販売店はマツダのディーラーの関連部門だったと思います。
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 フィアット2300は昭和34年から生産されていた中型セダンの発展最終型で、1500・1800・2100とグレードアップしてきました、おそらくこのカタログを手に入れた時点でイタリアではモデルチェンジされて、後継車のフィアット130になっていたはずですが、日本ではまだ普通に販売されていました。
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 デザインはピニンファリーナが手がけ、プジョー404やオースチンA55などによく似ています、またダイハツコンパーノの試作段階ではそっくりのデザインが東京モーターショーで発表されていました。

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 昭和30年代後半当時、まだ発展途上だった国産車のベンチマークにもなったようで、初代セドリックやプリンス・スカイラインなどはそんなことを感じさせます。

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 2300のエンジンは直列6気筒OHVクロスフロー、ウエーバー気化器で2279cc117馬力を発生し、0-400m加速18.3秒、最高速度160km/h、後半にはサキソマット(自動クラッチ)やボルグワーナー製自動変速機も設定されました。

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 私もほんの少しだけ試乗した経験がありますが、運転席に座ると内装の材質などでエキゾチックを感じますが、走らせると左ハンドルであること以外はそれほど違和感がないように感じました、むしろクラウンなどより古さを感じ、少しだけの試乗では上記の性能を垣間見ることは出来なかったことを覚えています。
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 それでも価格が215万とお高く、当時のクラウンやセドリックが100万ちょっとでしたので、おおよそ国産車の倍ですから、これはもう高級車でした、というより外車はみな高級車の時代でした。

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 たしか昭和35年頃、三菱にノックダウンの計画があったという記事を読んだ記憶があるのですが詳しくは判りません。







posted by 健太朗 at 13:32京都 ☁Comment(0)外車の話

ダイハツのレーシングカー P5

  今日はちょっと変わったところでダイハツのレーシングカーの話をしましょう。

 昭和38年5月3~4日、鈴鹿サーキットに於いて第1回日本グランプリレースが開催され、日本のモータースポーツの幕が開けられました。

 これ以前は日本にはクルマのレースなどありませんでした、いえいえ、全くなかったわけではありません、それこそ大正時代には日本自動車競争倶楽部という団体が出来ていますし、東京の多摩川河川敷には楕円形のコースを持ったサーキットがあったそうです、鈴鹿サーキットを作った本田宗一郎親爺さんは戦前の昭和11年、その多摩川サーキットでフォードに自作のターボチャージャーをつけたマシンで出場しています。

 戦後の復興期にはオートバイのレースが船橋オートレースや富士登山軽オートバイ競走大会など、盛んに行われたそうですが、四輪車のレースは目立ったものといえば、日産がダットサン210のオーストラリアモービルガストライアル優勝があるほか昭和34年の第1回日本アルペンラリーがあるくらいです。

 ですから昭和37年に鈴鹿サーキットが出来てから日本で本格的な、そして国際的なレースが出来るようになったわけです。

 第1回日本グランプリでは、クルマもドライバーも外国から招待し国際スポーツカーレースとしてこの日のメインに位置づけされました、ロータス23、ジャガーDタイプ、ポルシェカレラやアストンマーチン、フェラーリ250など見たことがないような世界の名車がこのレースに出場したわけです、これによって20万人もの観客が見物に訪れたといいます。

 そして国内レースでもトライアンフ、MG、スプライト、Eタイプジャガーなどが活躍する中、コンテッサ900、フェアレディ、スズライトなどが先頭を走りました、中でもパブリカ、コロナ、クラウンのトヨタ3車種がそろって優勝するといったハイライトもありました。

 第2回日本グランプリでは、フォーミュラレースにデルコンテッサが出場し、スカイラインGTとポルシェ904の記憶に残る接戦があり、ホンダS600、ブルーバード、グロリアなどの優勝もありました。

 このように各メーカーがワークスとして力を入れる中、勝ったメーカーは拡販につながるほど効果があったので、ダイハツもコンパーノスパイダーで全日本自動車クラブ選手権レース大会などに出場しますが、なかなか成績を上げることは出来なかったようです。

 さて昭和41年1月3日富士スピードウェイがオープンし日本グランプリレースもこの年から富士に舞台を移します。

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 コンパーノベルリーナのボディをファーストバックにしたり空力を意識したP1、P2、を経て本格的なプロトタイプボディP3を開発、このP3、2台は第3回日本グランプリレースに出場しクラス優勝しています。

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 しかしこの第3回こそ各ワークスチームが最も力を入れてきた大会でした、60周回360kmという長距離レースとなり、初めて燃料補給などのピットインが必要となるレースで、プリンスR380、トヨタ2000GT、デイトナコブラ、Eタイプジャガー、ポルシェカレラ6など大排気量のマシンがデッドヒートを繰り返し数々の事故もあり、今では考えられないピットワークの失敗などで混戦する中、1000ccの小さなエンジンで着実なレース運びで総合7位、クラス優勝でフィニッシュにました。

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 その後ダイハツは第4回日本グランプリレースを目指してP5を開発します、こちらはコンパーノの車台から本格的なチューブラーフレームが採用され、全長3850mm、エンジンもDOHC・1261ccに引き上げられ、130ps、最高速度は240km/hに達しました。

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 レースにはピットにスペアのタイヤや給油機も持ち込んで万全を期しての挑戦でしたが、レース直前になって主催者側で、

 「性能が大きく異なる車が一緒に走ることによる危険の防止」

 という理由で予選タイムが2分20秒を切らなければ失格と言うことになってしまったのです。

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 もちろんR380やカレラ6には問題ない数字ですが小排気量のP5や日野サムライなどにとってはきびしい条件になって、P5は僅か0.6秒差で失格となってしまいました。

 昭和43年の‘68日本グランプリではさらに改良が加えられP5は4台が出場し、トヨタ7、ニッサンR381、ローラT70やポルシェカレラ10など最新のマシンに混じって、ラップタイム2分9秒2を記録します。

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 成績は総合では10位ですがクラス優勝を果たし、マクランサに割り込まれますが3位から5位を独占しました。

 ちなみにマクランサはホンダS800をベースに京都の童夢が開発したマシンです。

 その後もP5は鈴鹿1000kmレースや300kmレースなど主に長距離レースで表彰台に上がる活躍をしますが、これにはP5の燃費の良さがあります、1000kmレースに於いても途中1回しか給油のためのピットインをしなかったという伝説のような話が伝わってきます。

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 しかし翌年、昭和44年の鈴鹿1000kmレースを最後にダイハツはP5によるレース活動から撤退します、背景にはトヨタとの業務提携があったことは間違いないのですが、その実、クラス優勝を繰り返しても、総合優勝のような派手さはなく大きな宣伝効果は見込めず、大きな経費を掛けることの無駄を続けられない会社の事情もあったようです。

 昭和45年にはケイヨウGTという名前で個人参加を果たしますが、その年限りで姿を消しました。

 そして今でもダイハツ社内には黄色いP5が大切に保管されているそうです。