2016年11月10日

舶来国産車・オースチン

 昭和20年、太平洋戦争が終わって混乱の中から人々は懸命に復興に取り組みました、私は「戦争を知らない子供たち」の一人ですから、諸先輩方の筆舌に尽くせぬほどの奮闘努力のおかげで今日の私たちの生活があるものと無限なる感謝しかありません。
 

 ダットソンで始まって、戦前からダットサンを造っていた乗用車の老舗、日産自動車はしかし先進国の自動車技術に大きく差を付けられていた昭和27年、イギリスの BMC社(同年オースチンとナッフィールドが合併)と技術提携をしました。

 実に33億という大金で横浜の鶴見工場を整備し、昭和28年、オースチンA40サマーセットをノックダウン生産し、9月第1号車を完成させます。
          A40

 この年、いすゞヒルマンと日野ルノーも発売され、舶来国産車の御三家がそろいます。

 ところが、イギリスのオースチンでは29年9月にはA50ケンブリッジへとモデルチェンジしてしまいます、後進国には旧型で充分だと思われたのでしょう、まったく馬鹿にされた話です。
          A5001 

 しかし日産は最新技術を習得するためにノックダウンを始めたのですから、即、A50に切り替えます、これにはせっかくの投資も大きな損になりましたが、この決断は後の日産に大きな発展をもたらします、オースチンノックダウンから得た技術は、昭和34年発売の初代ブルーバードや昭和35年の初代セドリックに生かされました。

 例えばエンジン、A50のB型(日産名1H型)エンジンは特に高い性能を持ったエンジンではありませんが、使いやすく造りやすく丈夫なエンジンでした。

 

         Photo

 

 ですからダットサンのC型E型を初め日産製の中核エンジン技術となっていったのです、記憶に新しいところではサニーやチェリーにもオースチンの流れをくんだエンジンが載っていました。

 それでもA50ケンブリッジの性能は、昭和30年前後の国産乗用車とは比較にならない優れたものであり、当時の愛好家のステータスとして人気があって、中でも、ほとんど英国製部品を使用した本革張りセパレートシートの初期型は中古車になってからも人気が高かったそうです。

 ただ、当時のイギリス人向けの設計は、日本規格の限界まで大きくしたライバルのトヨペット・クラウンなどに比べると後部座席のゆとり、などの魅力に欠けていて評価は必ずしも高くなかったそうです。

 

         Photo_2 

 

 私は舶来国産車御三家のうち、オースチンだけは整備に関わったことがないのが残念でなりませんが、短時間乗ったイメージでは初代セドリックとよく似た乗り味だったと記憶しています。

 ともあれムカシのイギリス車は両足を前に伸ばし、ハンドルは近く、深く柔らかなクッション、柔軟性のあるエンジンはセカンドギヤで発進してそのまま5~60km/hまで伸びる、またトップギヤ20km/hからでも難なく加速する、実に乗りやすいクルマというイメージを持っています。

 

 昭和31年には完全国産化を達成しその後セドリック用の1500ccに載せ替えたりタクシー用にはベンチシートに換えて6人乗りになったりしましたが昭和35年、セドリックにその地位を譲るように消えてゆきました。

  ちなみにオースチンA50ケンブリッジの価格は109万円でした、初代セドリック1500は82万円、いすゞヒルマン83万円、クラウン1500も81万円ですからちょっとお高めです、でもフランク永井の「13,800円」というサラリーマンの月給を歌った歌謡曲がリリースされた年のことですから庶民にはどれも高嶺の花だったことに間違いありません。

posted by 健太朗 at 20:22| Comment(0) | TrackBack(0) | ニッサンの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする