2014年02月27日

ダイハツスポーツハードトップ

   今回も実際には市販されなかったクルマの話です。

   このクルマは昭和41年、ビートルズが日本武道館で公演をした、その年の東京モーターショーに出品されたショーモデルで、コンパーノのシャシにベルリーナGTの1000cc燃料噴射エンジンを載せて、イタリア風のクーペボディーを着せたもので、この美しいボディデザインは外注ではなくダイハツ独自のものだそうです。

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          Photo

 

   この時代は先述のビートルズ日本公演のように日本の自動車も勢いがついて来たころで、この年の5月に行われた第3回日本グランプリでは、日産R380やフェアレディ、プリンススカイラインやホンダS800などが活躍していますが、ダイハツでも写真のP3がロータスエリートなどを抑えて7位入賞を果たしています。

          P3 

   このような勢いでこの年のモーターショーにはプリンスロイヤル、カローラ、N360の他、日野スポーツプロトタイプやコルトフォーミュラ、ホンダF1、ホンダブラバムF2などのレーシングカー、シルビア、トヨタ2000GT、ベレット1600GTファーストバックなどのクーペタイプの出展も多く、その中にあってダイハツスポーツハードトップの美しさは際立っていたと私など強い印象を受けた記憶があります

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posted by 健太朗 at 18:02| Comment(0) | TrackBack(0) | ダイハツの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月17日

コロナクーペ

 今回は、懐かしくも珍しいモノクローム写真を紹介します。

 

 これは1963年、昭和38年の東京モーターショウに出品された、コロナクーペです。

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 当時のコロナは2代目RT20型、東京モーターショーには64年型でマイナーチェンジされた後期型が出品されました。

         

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 これをベースに試作されたコロナクーペ、クーペと名がつくのはマツダR360クーペ以来2番目になり、マツダほど画期的ではないが当時としては美しく新しいデザインだと云えるのではないでしょうか。

 

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 RT20の車台と前トーションバー、後リーフスプリングはそのままにクラウンの1897ccエンジンを積んでいるということで100ps、にチューンされているということです。

       

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 この時代はディスクブレーキというものがまだ珍しく、この年のショーではこのクルマが唯一ディスクブレーキを採用しているということでしたが、残念ながらコロナクーペは市販されませんでした。

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 64年型コロナは、少しマイナーチェンジが行われました、私が乗ったのは63年型でしたが、グリルや前の車幅灯、後の方向指示灯などが変更され、ダッシュボードが大幅に変わって、針式の近代的なスピードメーターになりましたが、私は旧型のドラム式メーターが好きでした。 

 またこの時代はクルマの価格がどんどん下がった時代で、RT20の最初の価格がデラックスで72万円だったのに対し、64年型で67.9万円、昭和40年、RT40にモデルチェンジしてからは54万円くらいになったと記憶しています。

 余談ですがこのころ、国産車の年式の呼称が変わっています、1963年式と呼ぶのは10月までで、それ以降は昭和39年式、40年式と呼びました。

 

         196401 

 こちらはコロナ1500Sコンバーチブル、これもショーモデルで市販はされていません。

 エンジンは市販のセダンと同じR型1453ccですがSUツインキャブレターでセダンの62psに対して75psにアップして最高速150km/hとしています。

 実際にツインキャブモデルが出たのはRT40になってからの、1500Sが最初です。
 

 テールフィンのコンバーチブルなんてアメリカ車のようで夢がありますね。

 
 この他にもコロナクーペと同じ3R-B型1897ccエンジン80psを積んだコロナ1900Sも出品されていましたがこれもショーモデルに終わっています。


  ちなみに、RT20の輸出仕様はティアラという名前でした。

 

 

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posted by 健太朗 at 20:47| Comment(0) | TrackBack(0) | トヨタの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2014年02月14日

まずは病気のことを少し書かせてもらいます

 まずは病気のことを少し書かせてもらいます。

 

 あの日、左目の奥が痛かったのです、自動車屋を退職後、デイサービスで送迎の仕事をやっていた私は運転に差しさわりがあるといけないと思い、勤務を休んで近くの眼科を受診しました、診断はひと言、高血圧によるもので眼科では治療の方法はない、というものでした。

  眼科医からは脳神経外科が有名な病院を紹介して頂きましたが、私はその意味を解さず、近くの掛かりきつけの内科医へ行ったのです。

 あいにく医院の待合室は混雑していましたので、私がいつもするように一旦家に帰って、待ち時間を利用して熱帯魚の手入れをしていました、ところが、暫らくすると身体に異変を感じたのです、右の手に細かい痺れを感じたのです。

  これは実は典型的な脳梗塞の症状なのです。

 

  しかし、事の重大さに気づいていない私は意外なほど冷静にかかりつけ医に電話して症状を話し、救急車を呼んだほうがよいかどうかを尋ねていたのです。

  もちろん先生の返答は、すぐに119番に電話しなさい、とのことでした。

  冷静だと思っていたのですが、このとき私は110番に二回も間違い電話していたことが退院後eo光の請求書ページを見てわかりました。

 

  先生は同時に第二日赤の医師を紹介してくださったのです、このことは私にとって幸いでした、何しろ天下の日赤の一流の先生に診てもらえるのだからこれはラッキーです。

 

  救急車が来るまでのわずかな時間、私は様々なことを考えていました、救急車が家の前に停まったら近所の人が出てくるやろな、とか、家内はどこへ行った、とか、帰ってきたらびっくりするやろな、など、実に呑気な思考をめぐらしていました。

 

  突然、身分証明が要る、と思いました、そんなものは要らないのですが、そう思ったのです、私はそのまま階段を駆け上がって仕事用ズボンのポケットにあった免許証を持って駆け下りたのです。

  無知というのは呑気なのか危険なのか、脳梗塞で倒れた人がこんなことをしては絶対にいけないのです、絶対安静なのです。

   右の手はしびれたままでした。

 

  救急車が来て、家内が買い物に行ってたらしく玄関から駆け込んできました、私は救急車の乗務員に自分の症状と日赤の医師の名を告げると担架に乗せられて運ばれていったのです。

  表に出るとご近所のささやき声が聞こえました。

 

  救急車に乗ったのは生れて二回目です、あれは昭和43-4年のこと、CB72というオートバイで武田街道八条あたりを走行中、急にUターンしようとするクルマにぶつかって宙を飛んだ、そうして膝を怪我して救急車に乗せられたということがあったのです。

  あの時に比べて救急車の乗り心地は随分よくなったなあ、なんてことを考えているうちに第二日赤病院に着きました。

 

  担架に乗せられた私は集中治療室に運ばれました、時計や指輪は外され、腕には点滴、ペニスにもカテーテルが入れられて、それからCT,MRI,エコーなど色々な検査が行われたのですが、そのうち眠ったのか気を失ったのかいつの間にか時間が経っていました。

 どれくらい時間が経ったのか、後になって先生に聞くと約34時間だったそうです。

 

  気がついたときはすでにICU集中治療室にいて、更に鼻からは栄養を摂る管が入れられていて、それは食道を通って胃まで届いているそうです。

  体を動かすことはできず、それは禁じられているだけでなく右手右足は自力ではほとんど動かなかったのです、特に右手は全く動かず、腹の上に乗せるとやたら重いのです。

 死んだ人の手だ。

 やるせない気持ちですがそんなことを思ったものです。

  また、これは半身不随ではないのか、などと考えて私は愕然としました。

  ベッドの脇に家内がいてくれたのですが、このことを伝えようとも言葉が出ません、なにがなんだか分からなくなって、そして途方もない絶望感にさいなまれたものです。

 

  それからの数日は寝たきりの状態でした、その間に何が起こっていたのか、医学の知識がない私に知る由もないのですが、一時はこの命の灯火さえ消えかねない状態だったと後で聞きました。

  ともかく私は生きている、そう思うようにしました。

  しかし、主治医の先生は、あなたの症状は極めて軽いので必ず治るし後遺障害もほとんどないし仕事にも復帰できます、ときっぱり言い切ってくださったのです。

  私はその言葉を信じることにしました。

 

  それから、私の病は目を見張るように良くなっていきました。

 しばらくして点滴以外の管はなくなったので、点滴スタンドを引きずりながら病院の廊下を歩けるようになると、これがリハビリの始めだと思って歩いて歩いて、そしてまた歩いたのです、まるで焦るように。

  しかしいくら焦ってもどうにもならないのです、右手は思う通りに動かない、右足は歩けるが初めはトイレに行きたくなったら看護婦さんを呼ばなければいけない、おまけに口からは言葉も自由に出てこない、いわゆる失語症でした。

 これは経験のない人にはわかってもらえないかもしれないが、脳梗塞や脳出血などで失語症になった人のほとんどは頭の中には言葉も考えも想いも意識もあるのです、意識がないように見える人でさえ頭の中には言葉も考えも想いも意識もあるのです、ただ言葉が口から出ない、手足も動かないから表現ができない、これは本当につらいことです、気が狂いそうになるほどつらいことなのです。

 

  私は常々、病に気を付けてはいけない、などと偉そうにひとに言うことがありました、気は空気の気ですが気持ちの気でもあり、気にしなかったら病は勝手に消えて行く、などというのですが、病気になって病気から気を離すことがどれほど難しいことかよくわかりました。

 

  でも救いはありました、必ず治る、という先生の言葉のように腹の上に乗せた右手が少し軽くなったのです、そう、軽くなった右手は軽くなるにつれて少しずつ動くようになってきたのです。

  そして少しずつ話せるようになってきました。

 

  10日もするとリハビリが始まりました、最初はリハビリ担当の先生が病室まで来てくれました。

  手、足、言葉、それぞれの担当の先生が来てくれました、自由に動かない腕を動かし掌を広げ、指を伸ばしそして握らせた、足の筋肉を伸ばしそして曲げる。

  それでも私にとって苦しいのは言葉のリハビリです、これはなに? ボールペン。これはなに? 携帯電話。これは? ・・・。今日は何曜日 ・・・火曜日、うん?何曜日? あ、月曜や。そしたらここは何処? ここは・・・ここは・・・・  日赤と答えればいいのに出てこない、こんな調子です。

  こんな問題もありました、ハンカチ、時計、ボールペン、鉛筆、櫛、はさみ等を机の上に並べて、さて問題、鉛筆をハンカチの上に置いてください、はさみをボールペンの横においてください。

後で聞くと10問のうち2問しかできなかったそうです。

 

 日赤病院に約1ヶ月入院して大原にあるリハビリテーション専門の病院に転院しました、ここでは言語療法、理学療法、作業療法が少なくとも1回1時間以上、合わせて3時間以上、療法士の先生がマンツーマンで施してくれるのです。

 

 言語療法は雑談と読み書き計算です、小学生がやるような暗算ですが出来るだけ早く出来なければなりません、筆算は解き方も忘れていました。

 理学療法は私の場合主に足の筋肉トレーニングです、マッサージに始まって体操やストレッチのほか、エアロバイクや平行棒、マットやバランスをとるための板などジムにあるような道具をたくさん使いました。

 もっと重症の人なら歩くだけでも大変な努力が必要なのです。

 

 そして作業療法は私の場合は指先の訓練です、なんとか動くようになった右手ですがお箸も持てないし字も書けないありさまでした、しかし指先を自由に動かすには腕や肩はもちろん脇の筋肉から腰や脚も鍛えなければならないことがこの病院に転院して初めてわかりました。

 なにしろ脳梗塞というのは脳細胞の一部が壊れて死んでしまっているわけですから、その部分が受け持っていた身体の部分は極端に衰えてしまいます、これを廻りの脳細胞に肩代わりしてもらうには身体のほうから動かすなり何らかの信号を送ってやらなければならないのです、これがリハビリなのですから私の場合は右半身を鍛えるしかないのです。

 重症の方は電気信号を使ってでも動かさなければ動かないまま固まってしまうのです。

 お手玉をほり投げたり輪なげ、ゲームのほかピンを小さな穴にさしたりボール、ビー玉やパチンコ玉、グリップ、積木、お箸に小豆、黒豆、樹脂製の粘土のようなもの、原稿用紙からパソコンに至るまでいろんなものを使ってやりました。

 

 うれしいことに日に日に少しずつ良くなっていきました、毎日一つずつ、出来なかったことが出来るようになる、こんな喜びの日々もありました。

 少し良くなるとその外にも自主トレーニングのメニューも作ってくれるから、こう言うのを寧日ない日々というのでしょうか、病院暮らしの身にはいささか忙しいしけっこう疲れるものです。

 それでも私はじっとしているのがもどかしく、早く帰りたい一心で焦るようにリハビリに励みました、空いた時間は廊下を歩き、階段を上り、またボールの代わりに紙くずをまるめて壁に投げつけたり、これもまた立派なリハビリなのです。

 

 大原に雪が積もって山の木々に白一色の花が咲いたとき、季節が一つ進んで病院暮らしも驚くほど長くなったと思いました、これで極めて軽症だというのですから脳梗塞という病気は恐ろしいと今更ながら感じています。

 1月下旬に退院してもう半月、自宅の生活にもようやく慣れて、3か月ぶりに仕事にも復帰しようと思っています。

 

 私の場合、幸せなことにラッキーが重なりました、それは救急車を呼んだ時から始まっていました、日赤の優秀な医師を紹介してもらったこと、処置が速く軽症ですんだこと、優秀な療法士がそろった病院に転院できたこと、そして家内が毎日病院へ来てくれたこと、愛情を感じることは脳の回復には非常にいいそうです。

 また褒められることや笑顔もまたそうだそうです。

 リハビリの療法士さんや看護師さんたちがそれこそ一日中私のことを見ていてくれて笑顔で接し、ことごとに私のすることやリハビリが進んだことを褒めてくださったのです、私は入院したのは初めてですが、これほど人様に親身にお世話になったこと助けられたことを体験出来たのは、この65年の人生でたいへん貴重な経験だったと思っています。

 2つの病院の医師の先生をはじめ看護師さん、療法士の皆さん介護スタッフ、事務職員から厨房の方々まで、本当にありがとうございました。

 

 blogにしては長い文章を書きましたが、大変時間がかかってしまいました、なにしろ右手がキーの位置を忘れてしまっていたのです、リハビリの一環でパソコンで書き始めた文章が退院で途中になってしまったのですがそれをもとに書き直しました。

 この度の病気のことをひとしきり書いてみて、書ききれないことはまだまだありますが今は無限なる感謝の想いでいっぱいです。

 ありがとうございました。

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posted by 健太朗 at 16:03| Comment(6) | TrackBack(0) | 自動車屋のかどで立ち話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする