国民車・パブリカ700

 クラウン、コロナが成功して昭和29年に開発が始まったトヨタの大衆車、はじめはシトロエン2CVを参考にした前輪駆動の2BOXだったが、ここでもドライブシャフト・ジョイントがネックになって、うまくいかなかった。

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  しかし長い時間をかけて開発が行われ、昭和35年の第7回東京モーターショーに新型大衆車として量産型デザインの試作車が展示されて車名公募が行われ、パブリカは生まれた、パブリックカーの造成語だという。
 もしかしたらこのときはまだFFだったかもしれない、フロントサスペンションにトーションバースプリングを使ってドライブシャフトのスペースを確保しているあたりがFFの名残りではないだろうか。

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  そして昭和36年6月、FRセダンとして生まれ変わったパブリカは質実剛健な大衆車として38万9千円の単一グレードで発売された、しかし当初はあまり売れなかったという、当時の流行は黒塗りでクロームメッキのぴかぴかボディとと一部布張りの豪華なシートで、つまりちょっと豪華でステータスなクルマでなければマイカーを手に入れた感が薄いのである、ところがパブリカの場合は国民車構想の異常に安い価格設定(国民車構想では25万円以下)を意識したのかどうか、外装も内装のまったく飾り気がなく、しかもしゃれたサーモンピンクをイメージカラーにしていたのだった。
       
  国民車構想というのは昭和30年当時の経産省の一部の若いクルマ大好きお役人たちによって創られたもので、国民車として一定の方向を示すものだが、これは正式に発表されたものではなくマスコミによってスクープされたものだと言う話もある、しかもこれに合致したクルマを作っても政府から何の助成措置もなかった、むしろこれを強く意識して作ったクルマは結局中途半端で販売は伸びなかったのだ。

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  その後、メタリック塗装のデラックスを追加し、オープンボディの美しいコンバーチブルを発売、そしてビッグマイナーチェンジして800になり、ライトバンやピックアップからミニエースというトラックにまで発展し、ついにはS800というスポーツカーまで売り出して名実ともにトヨタの大衆車、ベストセラーカーになった。
 それでも私はサーモンピンクのオリジナルデザインが一番いいと思う。

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 今の軽自動車より少し長いくらいの寸法で充分なトランクスペースを持つノッチバックセダンは見た目より広く大人4人が充分に乗れる空間を確保している、強制空冷水平対向2気筒の利点を生かして低いボンネットを実現、スマートでしゃれたデザインとゆったりした乗り心地を両立している。 
  550kgの軽量ボディに28馬力の空冷エンジン、今の軽自動車でも味わえない軽ぅいクルマだ、アイドリングで左右にゆらゆら揺れるような振動も懐かしいが、アクセルペダルに力を入れて頑張らせたときのぶるっと震えて2気筒の鼓動を伝えてくるのはこのエンジンの最大の魅力なのかもしれない、だがもう少し力があったらと思わせるところがこの時代のクルマだ。

 で、当時流行った特別整備、早い話が違法改造なのだが、パブリカ700のエンジンを800にする。つまりシリンダとピストンを800のものに交換するのだ、排気量が100㏄増えてほんの少し力強くなる、と感じる程度なのだが。

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 シリンダとシリンダヘッドを分解した際に気をつけなければならないのがオイルタペットというバルブクリアランス調整装置、水平対向エンジンはどうしてもバルブクリアランスの調整がしにくいのでこの作業を省くために採用された、油圧を利用したこの装置、組み付けるときに充分空気を抜いてエンジンオイルを充満させてやらないと、タペット内の油圧が上がらずかたかたと大きな音を立てる、また古くなってくたびれてくるとやはりカタカタと大きな音を立てる、こちらはオイルタペットの摩耗によるものだ。

 おっと、パブリカの魅力を充分お伝えする前に欠点を書いてしまった、しかし当時パブリカにお乗りになった諸先輩は、そんな欠点は気にならないくらい魅力的なクルマだった、とおっしゃるに違いない。
 非力な空冷エンジンセダンの魅力を言葉で表すのは難しいものだ。

フェローマックス新車発表会

 昭和45年夏、高度成長期のまっただ中、千里丘陵では万国博覧会が開催されているころ、わが自動車屋でも好景気で、新車中古車問わずよく売れたし仕事はいくらでもあった、中古車は1年未満、1万キロ未満も当たり前のように売買されていた、私自身二十歳を少し過ぎた頃、心身ともに充実、日付が変わるまでクルマの下に潜っていたこともたびたびあった。

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 そんな折、こんなに小さくてレトロな自動車屋でなんと新車発表会が催された。

  アブラで汚れた壁に掛けられた愛用の道具類はすべて紅白の垂れ幕で隠され、かど口には立て看板やのぼりが立てられた、いつもの作業場にはモデルチェンジしたばかりのフェローマックスが鎮座していた。そして軒先にはその試乗車も用意された。

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 ダイハツデーラーがこんな小さな自動車屋に期待を持ってくれたのは嬉しいが、これは異常やな、と思った。デーラーや大手の販売店ならともかく京都の小さな町工場は古くからのお得意様でもっていて、少なくとも通りがかりの人がふらっと入ってきて新車を眺めて、そして商談などということはまずないだろう、お得意様だって普段から来店されることはほとんどない。

 その思いは的中した、数人のお得意様と私の友人が賑やかしに来てくれた以外、ほぼ一日中ご近所のオジサンたちの井戸端会議の場となっていたのだ、まるで地蔵盆のように。

 それでもこの日の後、数台のフェローマックスが売れたのは新車発表会おかげではなくフェローマックスの人気と期待度の大きさから、ではなかったかと思う。

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 期待のニューカー・フェローマックスはそれまでのフェローとはまったく違っていた、エンジンは同じZM型2サイクル2気筒を使っているのに、これがホントにあのトラック屋のダイハツのクルマかと思うほどかっこいい2ボックスの軽いボディとスポーティーで軽快な走りの前輪駆動、その分ちょっと乗りにくさも兼ね備えていた。


 朝顔型のハンドル、ちょっと堅めのフロアチェンジのシフトレバー、短いストロークでがしっとつながるクラッチ、細かに調節できるリクライニングシート、二点式シートベルト、かっこいいダッシュボードとコンソールボックス、手動ポンプ式ウインドウォッシャ、前ストラット、後セミトレーリングアームのちょっと堅めのサスペンション、どれもが新しかった。
 それでもまだこの時代、このスタイルでハッチバックではないし、ラジアルタイヤでもない、そしてエアコンもオートマもない。

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 数台売れた中にフェローマックスSSがあった、ZM15型エンジンは圧縮比を11にあげ、ツインキャブによって驚異の7200回転でなんと40馬力を絞り出している、これはリッターあたり100馬力を超える、軽自動車としては初めての快挙であった。
 期待通りこのクルマの走りはすばらしく、2サイクルエンジン特有のこもるような振動をボディいっぱいに響かせてびっくりするほどの加速を味わわせてくれた、音や振動が抜けないせいか、あのN360のバイクのような加速感とはまた違った、恐怖にも似た驚きがあった。

 

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 ところが、しばらくこのSSに付き合ってみると、このような本来の性能をたたき出す快調な状態を保つことの難しさに気がつくのだった、今のコンピュータで制御するエンジンと違って、なにもかも人の手で調整してやらなければならないのがこの時代、タイミングやキャブレターの調整も、気むずかしい、としか言いようがないほどシビアで、例えばタイミングは1度以下の差で極端に加速が悪かったりするし、キャブレターは少し薄いとのびが悪くなるし濃いめで調子を出すとプラグが溶けるほどの熱を持ってしまう、もちろんバランスが悪いと情けないほど調子が出ない、苦心して調整しても1週間もするとまた再入庫というありさまだ。


 マックスSSがすべてこんな有様だったと言うことはないと思うが、機械には当たり外れがあって、また機械というものは故障して当たり前、を実感していた時代のことだ。

 

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 結局いろいろやってみた結果、ベストではないがベターといえる持続可能な妥協点を見つけ出したものだった。
 もしも現代の技術で、例えばコンピュータ制御であのエンジンを廻したらどんな走りをするのか、出来ることなら見てみたい、そう想う。

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 果たしてこのフェローマックスSS、20才過ぎの若い顧客ではあったが1年を過ぎた頃、見切りを付けてほかのクルマに乗り換えとなった、自動車屋にとってはちょっと苦しい1年だった。