2008年01月28日

追突のK360

K360_0002

 ちょっと恥ずかしいことを告白する。
 「部品工場のミゼット」のページに同僚が事故を起こしたとと書いたが、実は私もやってしまったのだ。
 初めて軽自動車免許を取って三日目に追突事故を起こしてしまった。マツダK360に荷物を満載にして十条通りを走っているときのことである。
 前を走るタクシーが信号で止まったので、私も普通にブレーキを踏んだ。つもりである。だが、この軽三輪車の後ろブレーキは見事にロックして、つーと滑ってどすん。

  別に雨が降っていたわけでもなく、路面が凍っていたわけでもない。ましてやよそ見をしてブレーキが遅れたわけでもなく、普通に止まろうとしたのだ。只、K3のブレーキが後ろ二輪にしかなく、非常に非力であると云うことを私が知らなかっただけなのだ。
 まぁスピードが出ていたわけではないので双方ともクルマに傷もなく、またこの時代、むち打ち症などと言う言葉すらなく、ごめんなさいで事なきを得た。

 ミゼットがむかしの軽三輪車の代名詞のようになっているが、実は軽三輪は数え切れないほど沢山あったのだ。三菱レオ、ヂャイアントコニー、日野ハンビー、それにホープスターもあった。
 そしてミゼットと人気を二分していたのがマツダK360だ、600ccのT600もあった。キャビンの後ろに、つまりミッドシップに4サイクルVツイン11馬力を積んで最高速度65Km/h、性能は、特に秀でたものではなかったが、低い重心で抜群に安定性のある車体とそのデザインでケーサンと呼ばれて人気を呼んだ。
 ちなみに軽四輪ボンネットトラックのB360はビーヨンと呼ばれた。

K360 
古い雑誌にこんなイラストが載っていた。

バックは一文菓子屋の店先だろうか、荷物を積んだK3が荒っぽくカーブしているが、運転手の頭がヘルメットにも見える。ほんとにこんな感じでわがもの顔で走っていたK3の姿がよく現れている。

 V型2気筒エンジンは、R360クーペにも載っていたがオート三輪ではよく使われていたそうだ。だがおそらくこのマツダのVツインが二輪を除けば世界で最後のVツインだろう、世界の乗用車ではモーガン・スリーホイラーが有名だがもっとむかしの話だ。

 三輪車の運転免許は16歳で取ることが出来た、つまり三輪車そのものはオートバイから発展してきたものだ。

 だからバーハンドルの三輪車はオートバイのようにエンジンをまたいで運転するのだ。
 これが丸ハンドルに進化してもまだエンジンの位置は同じ場所にあったから小型三輪はともかく軽のミゼットなどの足下はずいぶん窮屈だった。
 k360はその点ゆったりとしていた、なにしろキャビンと荷台のわずかな隙間にシリンダを立て、潤滑をドライサンプにすることによって、ほとんどキャビンの空間を犠牲にしていないのである。

K36002blog                  (後期型の運転席とチェンジレバーそれに助手席下のオイルタンク)

 エンジンオイルのタンクは助手席のシート下にあった、そしてオイルフィルターは今のようなカートリッジでもなく濾紙式でもなく、分解して洗浄するタイプだ。数枚の円盤にスラッジが吸着してこてこてになっているものを洗い油につけて洗った記憶がある。

 ミッションは3速、チェンジレバーは助手席下のオイルタンク横から生えていてぐにゃっと曲がった形の、長いレバーだ。
 ローはほとんど助手の膝上辺りまで引き上げて後ろにこつん、セカンドとトップは運転手の膝裏でこつこつとやる、シンクロメッシュというものが全くないのでダブルクラッチは自然に上達する。

 そのペダルは床から生えていたが、後期型は吊り下げ式に変わった。
 それと同時に窓がスライド式から引き上げ式に、これは透明のアクリル板を持ち上げて上のクリップに引っかけるものだ。
 フラッシャレバーはダッシュボード上のダイヤルだったものがコラムから生えるレバー式に変わった。当然オートリターンはまだ無い。またホーンスイッチはコラムから生えたヘッドライトスイッチを横から押す、ルノーのようなタイプだったものが普通のハンドルのセンターを押すタイプに変わり、ヘッドライトスイッチもレバーになった。
 私が以前勤めていた自動車屋に付属した部品工場では前期方と後期型があったのでよく覚えている。
 K360を知らない人には私のこの文章ではおわかりいただけないと思うが想像力を働かしてみていただきたい。

 ある夏の暑い日のこと、甲子園球場近くにあったダイハツの工場へ納品に行った帰り道、実はこの日大量の返品を食らって、前期型のK360の荷台は300Kgの積載量オーバーで走っていた。
 箕面の辺りであったろうか、長いだらだらとした上り坂、171号線は当時片側一車線だった。11馬力のK3にとってはつらい道のりだった。アクセルをいっぱい踏みつけても30キロくらいでばたばたよたよたと登っていた。
 突然、後ろから押されるような衝撃がどすんと来た。
 ルームミラーはない、右側のヘッドライトの上にスクーターのようなバックミラーがひとつあるだけだ、そのバックミラーいっぱいにトラックのフロントグリルが映っていた。
 追突されたのだ。

 その場にクルマを停めて降りてゆくと、ふそうの大きなボンネット型トラックだ、

「もっとはよ走らんかえ」
「これ以上出えへんにゃさかい、しゃあないやんけ」
「ほな、よけたらんけぇ、辛気くさい」
「ぶつからんでもええやろ」
「すまん」

 その後も決して道を譲ることもなく、かといって無理に追い越されることもなく、小さなK3と大きなトラックは道路が広くなるまでのんびりと走っていった。
 大きなトラックと言ったってせいぜい60馬力に2.5トンもの荷物を積んでいるのだから・・・。 

posted by 健太朗 at 23:29| Comment(0) | TrackBack(0) | マツダの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月27日

私のパソコン その3

Kal-el-01.jpg

 2002年夏、日本橋のTWO TOPと言う店でちょっと気に入ったケースを見つけた。そしてこのときこそ私がパソコンの自作を決意したときだった。
 恵安の KN1000Mと言うケースは、前面にアクリルパネルが張ってあって電源を入れるとパネル全体が青く輝くのである。セオリー通りにいくと、先にCPUとマザーボードを決めるのだが、気に入ったものは仕方がない、まずケース有りきでパーツ選びをすることになる。


 おっとその前に予算というものがあった。8万円という予算は何の根拠もないが当時の私の、これくらいなら、という金額だ。

 CPUにセレロンを選んだのは、つまりヴィッツやマーチを選ぶのと同じである。安くて扱いやすく特別性能がよいわけでもないがまずまず必要な能力は持ち合わせている。
 当時ペンティアム4はちょうどウェルメットというコアからノースウッドに変わる時期で、セレロン1.7はまだウェルメットでありながら新しいペンティアム4と同じソケット478を採用していて、これは後でペンティアム4にグレードアップする為に都合がよい、と考えた。

 ケースとCPUが決まるとマザーボードはかなり絞られてくる。即ちインテル478ソケットのFSB400、それにマイクロATXとなる。
 そして予算を詰めるためにビデオカードはなし、そうするとインテル845Gと言うチップセットが答えだ。
 だがここまで答えが出ているのにまだどのブランドがよいのかが分からなかった。
 結局京都のTWO TOPで若い店員さんに定めてもらったのがGIGABYTE GA-8IGML-Tと言うマザーボードだった。そしてその他のものは成り行きで次のようになった。

 ケース  恵安 KN1000M
 マザーボード  GIGABYTE GA-8IGML-T
 CPU  Celeron1.7GHZ Box
 メモリー  OEM DDR256-2100-2.5
 HDD  SYNNEX ST3400 16A 40GB
 CDドライブ  IOデータ CDRW-AB24JL
 FDD  ノーブランド D353M3


 
 組み上がってまず驚いたのはうるさいと云うことだった。 

posted by 健太朗 at 17:10| Comment(0) | TrackBack(0) | パソコンの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2008年01月08日

利休色のコロナ

                    03blog

                                           (コロナ1500)

 幼なじみのてんとう虫とお別れしてからしばらく、私は二輪にうつつを抜かしていた。かみなり族と言われたが、後の世の暴走族のような悪さはしていない。少しばかりうるさいと思われた方にはお詫びをしたい。

 普通免許を取ってすぐ、1963年式のコロナ1500デラックスを買った。4年落ちの中古車で14万7千円、月給3万円くらいのときのことである。利休色というのはちょっと黒ずんだ薄いグリーンのメタリックである。本当は何とかグリーンというような名前があったのだろうが、呉服屋の多い京都ではそう呼ばれた。

 RT20という型式はコロナとして2代目で、コロナという名に市民権を与えたクルマであった。

  初代のコロナ(ST10)は、1957年当時クラウンのタクシー仕様としてのマスターというクルマ、その主要部品を使って初乗り運賃60円の小型タクシー用に作られ、だるまと呼ばれた。

                     St10

 サイドバルブの4気筒1000㏄S型と言うエンジンを乗せたクルマだった、それは当時人気があったダットサン(110)に対抗するための急ごしらえのクルマで、魅力的ではあったが商品としては短命に終わりわずか3年でモデルチェンジを余儀なくされた。京都でも京聯タクシーが使っていたが、モデルチェンジ後は、驚くほど素早く新型に変わっていったことが印象に残っている。

 1960年、モデルチェンジされたニューコロナPT20はカンティレバーというリヤサスペンションを採用した妙にふわふわとした乗り心地のクルマだったが、62年には1200㏄から1500㏄のRT20へと進化し、サスペンションは普通のリジットリーフになった。この辺りからコロナとブルーバードの販売合戦はますます熾烈になってゆくのである。いわゆるBC戦争である。

                                                       Blog                                                                    

(19歳の私と愛車 丹後半島の海岸近く、グリルやホイールを黒く塗るのが流行っていた。)

 私がこのコロナを手にいれた、BC戦争もマークⅡ 、ローレルに移行してゆく直前の昭和42年(1967)は、ビートルズが日本にやってきた翌年、ツイッギー、長髪、公害、アングラ、ゴーゴー、フォークソング、ブルーシャトーに帰ってきた酔っぱらい。そんな年であった。私もご多分に漏れず、フォークソングのバンドを結成、何処へでもギターを持って出かける生活をしていた。

 まだ20歳にも満たないギター少年が、ちょっと古いがいっちょまえの乗用車を乗り回していられたのも、自動車屋の仕事をしていたからで、と言うのは当時自動車を維持する上での経費の中に修理代が大きな割合を占めていたからだ。例えば車検整備費用が現在と同じくらい、と云えば分かるだろうか。
 やっと自賠責保険が義務づけされ、ガソリンだって40円前後の頃のことなのだ。それでも少年のポケットにはいつも僅かな小銭しか入っていなかった。ついでに言わせてもらうなら、この少年はクルマを乗り回していると言うだけで大いにもてたものだった。

 だから小遣いの殆どがクルマの維持費に消えたとしても悔いのない青春時代を送ることが出来たというわけである。
 
 さて、このコロナのトランクルームは今のように小さいスペァタイヤが床下に隠してあるのではなく、床下はガソリンタンクが占領していて、その上に560−13という大きなタイヤがあぐらをかいていた。
 その上大きな工具箱は常時携帯の必要があったから、ハードケースのギターを2本もつっこめばいっぱいであった。
 ガソリンタンクの給油口はナンバーの裏にあり、わざわざトランクを開けてレバーを押し、ナンバーを下に倒してゴム製のキャップを開けるのである、もちろんトランクオープナーなどない時代、エンジンキーとは別のキーでトランクを開けるのであった。


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 当時にタイムスリップして乗ってみることにする。
 ダイキャスト製のドアハンドルを握り、ボタンを押して重いドアを開ける。内装はすべてグリーンでまとめられている。外装色に併せてあるのだ。
しかし運転席に座ると朝顔型と呼ばれたステアリングハンドルは真っ白だ。そのハンドルの内側にホーンリングという大きなダイキャスト製クロームメッキのホーンスイッチがあって、もちろんこのリングのどこを押してもクラシックなダブルホーン(クラクションではない)が重厚な音を発する。
 そしてこれがフラッシャ(ウインカー)スイッチである。つまりこのホーンリングをハンドルと同じ方向へ回転させることによってフラッシャスイッチとなるものであった。独特のころころっと云う音を発してフラッシャが点滅する。


 前は大きなフロントグリルの端の大きなサイドランプと兼用になったライト、後ろはテールフィンの先端に赤く光るなみだ型のテールランプ兼ストップランプの下にこれも大きなバックランプと兼用のガラス製のランプが点滅するのである。
 ヘッドライトは新型のシールドビームが採用されて当時としてはたいそう明るかった。そのディマースイッチはクラッチペダル横の床の2センチくらいのボタンを踏むことによって切り替わるようになっていた。

 これは当時の国産車にはあたりまえのスイッチであったし、ホーンリングが回転するのはトヨタの乗用車はパブリカを除いてみなこの方式であった。


 ヘッドライトスイッチはダッシュボード(インストルメントパネル)中央にピアノの鍵盤を短くしたようなボタンがあって、押すとオン、下に押し下げるとボタンが戻ってオフである。

 しかし慣れないと押すときに下方向に押してしまい、なかなかオンにならないと言うようなことがあった。鍵盤はライターをはさんで左右に四つづつあって、右からヘッドライト、スモール、ワイパーハイ、ロー、ヒーターハイ・ロー、それにルームランプとフットランプである。ルームランプはセンターピラー左右に2つ付いていたし、フットランプはもちろん標準装備であった。

 シートは完全にフラットなベンチシートだからドライバーとパセンジャーの間にかなりのスペースが空くので、手荷物が置けるし、もう一人座ってもまだゆったりしていた。それでもこのクルマの全幅は1490㎜しかなかったのだ。現在とは車体の作りが違うのだろう。

 スピードメーターはドラム式、つまり数字の下を緑色の帯が伸びていくタイプだ。そして60キロを超えるとこれが赤色に変わるから見ていても楽しい。この頃は色が変わるメーターは他にもあった。例えばミゼットはメーターの針の照明が確か40キロで赤くなるようになっていたと記憶している。

 重いドアは決してたたきつける必要はなく、閉めようと思いさえすればかちっと閉まる。そのドアをかちっと閉めて、重いクラッチを静かに放すとそれだけでそろりと走り出す。
 時速20km/hも出るともうトップギヤの守備範囲である。

 乗り味はソフトだ。だが62年までのカンティレバーに比べるとかなりしっかりしていがこの柔らかい乗り味は現在のクルマでは味わえないものであろう。
 だがハンドルはソフトではない、重い。もちろんパワステなどない時代だ、だからこれでもスカイラインやオースチンに比べるとずいぶん軽い。

 次の交差点で停まって、トップギヤからローに入れ替える。
 突然チェンジレバーが動かなくなった。
 上にも下にも左右にも全くレバーがフリーズしている。
 しかし慌てる必要はない、「ギヤが咬んだ」だけなのだ。おもむろに前ヒンジのボンネットを引き上げてシフトリンケージをがちゃがちゃっとやってやればよい。
 つまり2・3速側がまだニュトラルの位置に戻るまえにロー・バック側が動いてしまってレバーはその中間に咬み込んでしまったというわけなのだ。これも当時のトヨタ車では日常茶飯事のトラブルであった。
ちなみにチェンジレバーは左手コラムシフト、手前に引いて下がロー、これが当時のスタンダードだ。

 発信加速はスムーズだ。クラッチペダルは重いが粘りのあるトルクを利用してその気になれば全くショックのない変速も可能だ。しかしお世辞にも鋭い加速だとはいえない、それは1トン以上もある車体をたった62馬力で走らせるのだ、そんなにすっ飛ばせるわけがない。とは言え、強い低速トルクのおかげで山道では力強い。そして丈夫なサスペンションのおかげで悪路にも強い。

 ある日、夜のドライブとしゃれ込んで東山ドライブウェイに登っての帰り道、カーブでセンターラインを超えてきた対向車をよけ損なって道路脇の溝に左前輪を落としてしまった。
 スバル360でも同じようなことをしてしまったが、そのときは通りすがりのおじさんによいしょと担いでもらったら苦もなく脱出できたが、コロナではそんなわけにはいかず、ハンドルを切ってごり押しで脱出した。

 そしてその数日後、伊丹空港まで名神高速を走った、何となくタイヤの音が大きく感じたので診てみると5分山くらいあったタイヤが見事にスリックタイヤになっていた。
 しかしそれでもダメージは少なく、サイドロッドを調整するだけでアライメントが回復した。

 私はこのコロナに約5万㎞ほど乗って手放すときには9万㎞に達していた。車検の祭に交換した部品はブレーキを始めサスペンションからエンジンに至るまで多岐にわたった。
 前述のように、このころの車検時の整備費用は今よりも高かったくらいで、サスをすべて分解するなど驚きもしなかったのである。しかしその4年ほどの間にほとんど路上故障等のトラブルはなかった。

 だから私は丈夫なクルマだと思っていたが、今、資料をめくってみると、ブルーバードに比べて車体が弱いとうわさされ、販売台数ではブルーバードに遙か及ばなかったという。

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posted by 健太朗 at 22:50| Comment(2) | TrackBack(0) | トヨタの話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする